'12読書日記59冊目 『動物からの倫理学入門』伊勢田哲治

動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

364p
総計16298p
名著のほまれ高い倫理学の入門本の一つ。とりわけユニークなのは「動物からの」というところである。筆者は冒頭で「どうして人間だけ権利が与えられているの? どうして動物に権利は与えられないの?」という問いを立てる。この動物倫理的な問いが、これまで自明視されていた倫理学の前提を根底からひっくり返しかねないスリリングな視点を与えている。文章は平明で、時に分析哲学特有のややこしさを持つ英米倫理学のエッセンスを網羅的に整理してくれてあり、勉強になる。本書を読んだからといって、動物に対してどう倫理的に振る舞うべきか答えが出るわけではないし、議論の仕方もそれぞれの理論に対してフェアであり長所・短所が余すところなく述べられているので、むしろ悩みは深くなるかもしれない。そういう意味で、本書の終章に書かれた反省的均衡(筆者は独自の訳で「往復均衡」としている)のところは是非読み飛ばすべきではない。それはいわば理論と実践をどう架橋していくか、ということの指針でもあるからだ。
ただ本書を読みながら幾つかの点で首をかしげたくなるようなところもある(というか倫理学という学問に対して、ということなのだが)。
一番よく分からなかった、というか混乱したのは、法と道徳の関係についてである。本書では基本的に法学的な議論はなされていない。にも関わらず、最初の問いかけ――「動物にどうして権利を与えないのですか?」――から「権利」という言葉が登場するのである。もちろん倫理学においても「権利」という概念は存在する(例えば典型的にはカント)ということはわかっているが、「動物の権利」を「認める」「認めない」という議論をするのだとすれば、そこに法哲学的な議論が介在する必要があるのではないか。「権利」に対して「義務」がある、という場合――往々にして勘違いされているが――権利者以外の主体に対してその権利を守るよう義務付けるということが含意されているはずである。もちろんこうした議論は倫理学(行為の善悪の指針の探求の学)においても当てはまるのだが、「動物の権利」という場合に主に考えられている「権利」の内実を考慮すれば、そこには法哲学的な議論の必要性が生じてくる。というのも、動物の権利において問題になっているのはまさに動物の「生存権」であるからであり、冒頭の筆者の問いは畢竟「どうして人間に生存権を与えるのに、動物にはそれを与えないのか?」というものであるからだ。「生存権」を問題にするなら、そこには当然「生存権」を保証する何がしかの主体の存在(それは多くの場合国家政府である)が議論されねばならない。仮に、生存権という語彙を法を度外視した純粋な道徳の領域でのみ用いるのだとすれば、それは単なるレトリックにすぎなくなってしまうだろう(例えば、「難民にも人権はある!」とかいうような)。それゆえ、動物の生存権に関する限り道徳の領域を超えて法哲学的な領域にも議論を拡張せねばならないはずなのだが、道徳と法の関係がどうなるのか、本書は全く教えてくれない。法的な権利を含意しない「権利」は、むしろ「道徳的尊厳」などと言い換えたほうがわかりやすいのではないか。どうしてこういうことにこだわるかというと、倫理的に正しい行為と遵法的であるだけの行為が区別される場合があるからである(例えば、私的な場では同性愛者差別発言に及ぶが公的な場では法が規制するためにそうした発言を慎む人について、倫理学的に考えるとはどのような意味を指すのか)。
本書を読んでいて混乱した第二の点は、倫理学が、論理的に筋道建てて根拠を問い、誰もが納得するやり方で道徳的な善悪の基準を探求する学問なのだとしたら、それは(ロールズ的な)契約説と基本的には同じなのではないか、ということである。つまり、倫理学は善悪の基準を「論理的に納得できる」人の合意(の想定)、つまり理性的な人間の合意(の想定)に求めているという点で、(たとえ功利主義帰結主義であっても)契約説と何らかわらないのではないか。
最後に、本書の議論の仕方において引っかかったのは、しかじかの議論を推し進めていけばしかじかの結論に至るが「これを認める人はいないだろう」というような言明である。もし道徳の基準が多数決で決まるのなら、あるいは倫理学が人々が現実に持つ規範意識について分析する学問なのであれば、こうした「〜という人はいない」という言明は説得力を持つ。しかし、ある議論を論理的に推し進めていった場合に帰結する結論であれば、それは首尾一貫しておりそれ自体で説得力をもって良いはずなのに、それは「〜という人はいない」という事実命題(にみえるようななにか)によって否定されてしまうのである。こうした言明が、倫理学で意味を持つ理由を、筆者は(よりによって)終章において説明している。それは、倫理学は直観との整合性を確保しなければならないというルールを持つというのである。「道徳的直観」――この言葉ほど「自然主義的」なものはないように見えるが、倫理学はそれから出発しなければならないというのである。おそらく、先の言明は、「道徳的直観において〜ということを認める人はいない」というほどの意味なのであろう。しかし、それと「論理的に筋道建てて道徳的価値の根拠を問う」ということの「整合性」はどう保たれるというのか(それについての解決が反省的均衡によって与えられてはいるが)。本書の一見して人の道徳的直観を脅かすような「動物にも権利が与えられるべきではないか?」という問いについて、「そんなことを認める人はいない」と反論するとすれば誤った議論になっているのだろうか*1。筆者によれば、こうした理論と直観のズレが生じた場合、(詳述しないが)反省的・往復的均衡によって、様々な枠組みを調整しつつ理論を改良することができるという。僕は、このような、漸次的に理論が「改良」されていくだろうし、倫理学は唯一最善の答えは出せずとも「よりまし」な答えは出せるだろう、という筆者の前提を共有できない。

*1:これは非常に嫌な書き方をしてしまった。すみません。