'12読書日記60冊目 『功利と直観 英米倫理思想史入門』児玉聡

功利と直観―英米倫理思想史入門

功利と直観―英米倫理思想史入門

286p
総計16584p
伊勢田先生の『動物からの倫理学入門』を読んだ時に、次のような疑問を持った。

最後に、本書の議論の仕方において引っかかったのは、しかじかの議論を推し進めていけばしかじかの結論に至るが「これを認める人はいないだろう」というような言明である。もし道徳の基準が多数決で決まるのなら、あるいは倫理学が人々が現実に持つ規範意識について分析する学問なのであれば、こうした「〜という人はいない」という言明は説得力を持つ。しかし、ある議論を論理的に推し進めていった場合に帰結する結論であれば、それは首尾一貫しておりそれ自体で説得力をもって良いはずなのに、それは「〜という人はいない」という事実命題(にみえるようななにか)によって否定されてしまうのである。こうした言明が、倫理学で意味を持つ理由を、筆者は(よりによって)終章において説明している。それは、倫理学は直観との整合性を確保しなければならないというルールを持つというのである。「道徳的直観」――この言葉ほど「自然主義的」なものはないように見えるが、倫理学はそれから出発しなければならないというのである。

というわけで、伊勢田先生の京大倫理学の後輩に当る(とおもわれる)児玉先生の『功利と直観』を手にとってみた。これまでしばしば功利主義に対立するのはカント的な義務論であると考えられてきたが、思想史を振り返った場合、こうした対立は実は、功利主義vs直観主義だとして読むべきだという。功利主義ベンサムをもって始まるなら(ヒュームを含めてそれ以前にも功利主義的な議論を行った思想家もいたが)、それは直観主義の曖昧さに向けられたものであり、その直観主義ホッブズ主義の反常識的な見解に対抗して成立してきたわけである。そのように英米の倫理思想史の流れを振り返りつつ(前半部は最近翻訳の出たシュニーウィンドに依拠して書かれている)、本書は20世紀のシジウィック、ムーア、プリチャード、ロス、そしてロールズ、ヘア、シンガーを概観していくことになる。そして応用編として最後には法哲学生命倫理学、脳科学の分野における功利主義直観主義の抗争を見ていくという流れになっている。伊勢田先生の本も相当に分かりやすく面白かったが(下記の記事では色々不満を書いたが)、僕としては思想史の流れの中で、二つの哲学的な流派がどのようにしのぎを削り、互いの議論を成熟させてきたのかを理解させるような叙述は、非常にスリリングで面白かった。カントの義務論に割かれたページがあまりにも少ないことは多少不満であるが、「英米倫理思想史入門」なので仕方ないだろう*1 *2
さて、上記に書いた倫理学直観主義的論法に対する僕の疑念であるが、本書によれば、それこそがむしろ直観主義に対して倦むことなく功利主義が反発してきた当の原因であったらしい。結語にはこう書かれている。

倫理学の仕事とは何なのか」あるいは「実定道徳(常識道徳)を批判道徳の土台となるべきものと考えるか、それとも批判道徳によって改善されるべきものと考えるか」という問いに対する答えの違いが、功利主義直観主義という二つの立場の相違を生み出す一因となっているように思われる。

より詳しく書かれたものとして、第六章にはこうある。

本書の関心で一番問題にしたいのは、〔…〕行為功利主義よりも規則功利主義の方が「道徳的直観をよりよく説明できる」という前提のもとにこうした論争が行われてきたという点である。〔…〕「我々の通常の道徳意識に反する」という主張に対しては、実は二つの答え方がある。一つは、理論を修正して、功利主義が通常の道徳と衝突しないことを示すことである(規則功利主義の答え方)。もう一つは、「だったら、通常の道徳が問題である」と開きなおることである(行為功利主義の答え方)。はたして、人々が持つ直観をよりよく説明できることは、道徳理論の妥当性にとってどれだけ重要なことなのだろうか。

こうした問題について、R.M.ヘアは二層理論(two-level theory)を提示している。つまり、第一階の「直観レベル」では一見自明な道徳規則から出発して議論を重ねていくが、それから導き出された諸規則が葛藤を引き起こす場合には、第二階の「批判レベル」における思考が要請され、功利主義的な思考が導入されることになる。ヘアはさらに、ロールズを「隠れ直観主義者(crypto-intuitionist)」として批判する。ロールズは、正義に関して熟慮を経た信念に対して、原初状態から導き出された道徳原理が合致しない場合、原初状態の初期条件を変えるか、信念を修正するかして、道徳原理と熟慮による信念を一致させていくという、反省的均衡の方法論を提示していた。ヘアはこの方法論に対して、「熟慮による信念」という直観を道徳原理の中に密輸入しているのであり、それは結局「主観主義」、「道徳的な問いに対する自分の答えが正しいかどうかは、その答えが自分や周りの人の考えと一致しているかどうかによって決まる」主観主義にすぎないというのである。
さらにロールズの批判者にピーター・シンガーが連なる。まず、反省的均衡においては、熟慮による信念が異なるコミュニティにあっては、異なる道徳理論が正当化され相対主義になってしまう。さらに、仮にすべての人が同内容の熟慮を経た信念を持ったとしても、それはせいぜい間主観的な妥当性しか持たず、客観的(普遍的)な妥当性を持たないだろう。そのうえ、たとえ熟慮を経た信念であったとしても、それは実際の道徳意識を単に記述したものになってしまい、保守的な方向に働く可能性を持ってしまうだろう。
つまり、そもそも「倫理学」がどのような学問なのか、その規定をめぐって学問内部でさえ統一的な見解が存在しないのである。そりゃ僕が混乱するのも無理はない!(爆)*3
僕のすごい適当な印象では、こうしたやや不毛に見える学問の規定性を克服するために持ちだされたのが、ハーバーマスとアーペルの「討議倫理」という方法なのではないか。ハーバーマスはポスト形而上学的な哲学状況にあって、もはや客観性は間主観性でしかないと開き直り、その間主観性を超越論的に正当化する手続きを示したのだった。となんとなく思ってみる。

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

*1:しかしカントの超越論的な道徳法則は直観主義に属するのだろうか。確かにカントは実践理性を「良心の法廷」と呼び、誰にでも分かることだと述べているが、他方で経験的な常識的直観を排除するような道徳律になっていることも否めない。もちろんカントは神的直観みたいなものも否定したのであり、定言命法が超越論的である理由はその(あまりに空虚でありそれゆえにこそ普遍的である)形式にこそあるとすれば、それは直観主義的ではないとも言える

*2:もう一つ不満を書いておけば、最終章で脳科学の極めて興味深い知見――功利主義的思考と直観主義的思考は人間の脳の構造から生じる基本的な緊張関係をはらんでいる――を援用し、「功利主義者と直観主義者の抗争という倫理思想史上の一大論争は、われわれが進化の過程で身につけた合理的な思考と直感的な思考の産物――あるいは副産物――であったということになる」と述べているが、この言い方はちょっと強過ぎないか。

*3:もはや電脳空間では(爆)は時代遅れらしい。今では「←」が最先端らしい。