'12読書日記69冊目 『デカルト、ホッブズ、スピノザ――哲学する十七世紀』上野修

デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀 (講談社学術文庫)

デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀 (講談社学術文庫)

263p
総計19023p
2000年までに書かれたスピノザを中心とした論文が10本収められている。講談社現代新書スピノザの世界』を読んだ時も思ったが、著者は本当にスピノザを本当に魅力的に描いてみせる。何が魅力的なのか? スピノザの思想の、その「途方も無さ」を有り体に理解させようとするのではなくて、途方も無いままに読者に伝えることに成功しているのである。上述の新書ではそんなことは全然感じなかったのだが、筆者は本書でかなりポストモダン的なスピノザ像を打ち出し、その論証の魔術を引き出そうとする。
とりわけ僕が興味深かったのは、「残りの者――あるいはホッブズ契約説のパラドックススピノザ」。ホッブズの契約説の論理構成が必然的に破錠せざるをえないこと、そしてその失敗を、意識してかせざるか、スピノザの契約説(に関する議論)が明け透けに暴露してしまっているということが書かれている。筆者はホッブズの契約説には隠された筋書き――「非対称性の相互性」と著者が呼ぶもの――が存在するのだが、スピノザの議論の中心にあるものこそその「非対称性の相互性」なのだと言う。それは、つまり、契約の場面において自分以外の不特定の他者を「残りの者」としてイマジネールに表象し、もし契約に参加しなければその「残りの者」らから力を振るわれてしまうだろうと恐れ、それによって人は契約に参加する、という論理展開を指している。「残りの者」は、いわばそこで、法を代表する至高の「声」として現れでてくるのである。こうした契約当事者の全員が、それぞれ自分以外の不特定な誰かを表象し、それに力を想像的に担わせることに国家の本質がある、というのだ。ここでは、つい、第三者の審級の先行的投射とか口走ってしまいたくなる。
さらに、文庫化される以前のタイトルでもあった「精神の眼は論証そのもの――スピノザ『エチカ』における享楽と論証」という論文も、その題名からして魅力的である。おそらく、これからスピノザを読んでいった時、僕はこの筆者の導きに従ってでないと、スピノザを楽しむことはできないだろう。それくらい、魅力的なスピノザ像を提出している。