'12読書日記71冊目 『不死のワンダーランド』西谷修
不死のワンダーランド―戦争の世紀を超えて (講談社学術文庫)
- 作者: 西谷修
- 出版社/メーカー: 講談社
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- 作者: 西谷修
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19716p
88年から89年にかけて『現代思想』に書かれた論文が収められている。筆者は、ハイデガーと、その非嫡出子(嫡出子はサルトルが自認するだろうか?)としてのレヴィナス、バタイユ、ブランショを、同時代性において読もうとする。というよりハイデガーを見取り図にして、サルトルの栄光の時代に不協和音としてしか存在しなかったが、しかしその凋落以後に見直されるようになってきたこれらのフランスの現代思想家たちを読む、と言う試みであろうか。そして、この試みは成功を収め、ハイデガーはそれなりに知っているが、フランスで影響を受けた人々についてはよく知らない僕のような人にも、彼らの思想の概略が見えてくる。レヴィナス、バタイユ、ブランショを読み解く鍵は、筆者によれば、「死の不可能性」の直視である。死は誰でもに訪れるが、誰もがそれを自らの固有の経験として持つことはできない。それは、「私は死んだ」という言明が不可能であることからも明らかだ。私は死に際して、自らであることをやめ、〈ヒト〉になる。私の死は、自らの実存の限界点・臨界点にあるが、それ自身は実存の範疇にはない。ハイデガーが、この「未だそれではないもの」としての死を直視することによって、死の覚悟を獲得する本来的な現存在へと到るのだとしたが、上述の思想家たちは、その死の不可能性のうちに、限界的な思想を紡ぎ出そうとしたのである。
やや冗漫で繰り返しも散見されるが、整理の仕方が上手く、見通しは良い。もう一度立ち返って読みたいのは、「〈不死〉のワンダーランド」という脳死を扱った議論のところである。脳死患者における身体の功利的利用を筆者は退けるが、その理由は――ごく簡潔に言えば――そうした功利的理由では脳死体が、そして筆者がそれと同じだとみなすアウシュビッツの収容者たちが、救われないからだというのである。単に技術の否定に向かうのでもなく、かといって性急に脳死と臓器移植の効用を解くのでもない筆者は、ぎりぎりの線を歩んでいるようにも見える。死の不可能性が現出したということ、人は死ぬことによって実存を奪われた〈ヒト〉になるということ、そしてその意味はつまり、共存在として出来しているということ、臓器移植によって移植された脳死患者の身体はまさにそうした共存在として他人の生の中に混然となるということ、これらの視座からどのような倫理を紡ぎだすべきなのだろうか。