'12読書日記77冊目 『無為の共同体』ジャン=リュック・ナンシー

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

291p
総計21524p
難しい。単純に難しい。第一部「無為の共同体」はなんとかついていけたが、第四部・五部は完全に振り落とされてしまった。訳者の詳細な注と解説がなければ全然わからないところだ。共同体というものについて、もっとも原理的に、存在論的に(存在的にではなく)考えぬいた書物であろう。だが、それゆえにこそ抽象的で難解になる。仕方ない。ハイデガーバタイユブランショマルクス
「無為の」というのは、僕が読む前に思っていたように「何にもしない人々の」という意味の形容詞として使われているのではない。働きも活動もせず、ただなにもしないで集合する人々、このような意味における「無為」が取り沙汰されているのではない。「無為の」共同体とは、共同体を何らかの本質を持った実体として(あるいは存在者として)考えることなく、つまり共同体を何らかの作品・制作物、成し遂げられるべきものとして捉えるのではなく、ただ存在論的に人間がその実存において持つ共同性を指し示すのだ。「無為の」というのはdés-oeuvrée、すなわちoeuvré(制作・働き・work)であることの否定なのである。
近代は、共同体(ゲマインシャフト)崩壊以後の時代だとして描かれてきた。共同体への回帰か、個人主義の礼賛か、という二極が分離してしまっている。失われた共同体への愛顧は、20世紀に入った時、2つの全体主義国家として実現した。共同体へと回帰することは、全体主義への第一歩だとして、忌避される。ヘーゲルは、あるいはそれを実存と結びつけて受け継いだサルトルは、人間ないしは共同体を、未来に向けてつくりあげられるものと考える。人間・共同体は、完成されるべき何かなのである。そこには、確かに、全体主義的な共同体の構成要件である、何らかの具体的な本質(ゲルマンであること、共産主義者であること)が前提とされているわけではない。しかし、ヘーゲルサルトルも、あるいはポスト全体主義の時代における共産主義者らも、「本質上自分自身の本質を自らの作品として生み出す存在者たちの共同体、さらにはこの本質を他でもない共同体として生み出す共同体」をこそ思考してきたといっていい。そしてそれは、少なからず全体主義の運動と一致してしまうだろう。具体的ではないかもしれないが、そうした思考においては、完成されるべき本質があらかじめ想定され、人間の本質が規定されるのであり、ともすればその本質に沿わない人間を排除し破壊しもするだろう。
こうした経験から、共同体は忌避され、近代の極度な個人主義が礼賛される。しかし、他方で、ナンシーは、個人というものが、そもそもは共同体なくしては現れ出ないものであるということを指摘する。individuumとは分割し得ないもの、ということを原義に持つが、それからして、個人が分割を前提としていることは明らかだ。つまり、分割できるような何かを、分割した結果として、個人が析出されるのである。仮に、絶対者というものがあるとすれば、それは、自分自身が単独で存在しているということだが、そのときには自分一人の力で単独に存在するのでなければ、「絶対的」ということにたいして矛盾することになるだろう。しかし、単独であるということにおいてさえすでに、何らかのものとの関係が前提され、その関係からの分離(absoluteとはab-solute、分離-解放である)が含意されている。つまり、このような論旨においてナンシーが言おうとするのは、個人として存在しているときにも人は共同体のもとに存在しているということである。しかしそれは何らかの実体や本質を持つ、制作物としての共同体ではない。ハイデガー存在論的差異において表そうとしたことを、ナンシーは共同体において試みるのである。つまり、共同体の存在を問おうとするのである。
人間存在が、制作され完成されうるようなものではないということ、単独者、個人として存在しているものではないということ、これらは死において明らかになる。死は、弁証法によって止揚されない一切の終わり、制作の完成ではなく無意味な途絶である。しかも、人は自らの死を死ぬことはできない。どんな人であれ、「私は死んだ」ということを経験することはできないのだ。私という主体が自身の死という固有なものにおいて、しかしそれを経験することなく消滅するとすれば、そのときには固有性を持つべき私は、一個の主体とは別の何かである。つまり、死は私を私ではない何か、他者に向けて押し開くのである。他方で、当然ながら私は他人の死を経験することもできない。他者の死において、私は他者と圧倒的に隔絶して分離されていることを経験する。このように、死において明らかにされるのは、私、数多の私が、自らにおいて他者であり、そして他者と分離されてあるということである。ハイデガーは死への覚-悟において現存在の本来的な存在様態にいたることを考えたが、それを共存在に含みこまなかった。むしろ、それを運命共同体としての民族へと回収してしまったのである。
このように、私が私においてすでに他者に開かれ、他者は私と隔絶しているという、この隔絶性において主体は限界を刻まれている。ナンシーはこの限界こそが現存在の間で分かち持たれている、分有されているのだと考えるのである。*1共同体は、誕生と死とを提示することによって、自我の外にある、外密的な実存を開示するのである。

[…]この諸々の特異存在は、それら自身が分有から構成されているのであり、それらを他者たちとする分有を通して配分され位置づけられ、あるいはむしろ空間化されているのである。他者たちというのは、互いにとって他者であり、それらの融合の主体にとって無限に他者である、そうした他者たちのことだ。そしてその主体といえば、分有のうちに、分有の脱自のうちに沈み落ちてゆく――「合一し」ないそのことによって「通い合い」ながら。

共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈と別のものではないのだ。共同体とは有限な存在たちの共同体であり、それ自体がそのようなものとして有限な共同体である。言い換えれば、無限で絶対的な共同体と比較して限定された共同体ということではなく、有限性の共同体なのである。

*1:ジンメルに似てはいないだろうか?主体はそれぞれ分け隔てられていることにおいて、繋がっている。