'12読書日記79冊目 『「統治」を創造する――新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』西田亮介・塚越健司編

「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会

「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会

355p
総計22261p
若手論者が、様々な角度から(思想史的背景・ビジネス・SF…)オープンガバメントについて論じており、議論喚起的な論集になっている。以下、ちょこちょこと感想めいたもの。
・ほとんどの論文が、9.11大震災以後のソーシャルメディアのあり方に触れ、それによって既存の政府やメディアとは違った情報流通経路のあり方について肯定的に考察している。ツイッターフェイスブックなどのソーシャルメディアによって、被災者の安否確認が可能であったこと。被災地で不足しているもの、求めているものが直接情報として入手可能になったこと。プログラマたちが社会的な貢献をしたこと。官民連携サイトが生まれたこと。既存のTVメディアがネットに開放的になったこと。熟議がネットを通して呼びかけられ、オープンガバメントというプラットフォームが創りだされたことで、市民の広範な参加を促したこと。こうした観察は、ともすればテクノロジー礼賛に傾きがちだが、それぞれ現状に対する足りないところも同時に指摘しており、バランスのとれたものになっている。そしてなにより、こうしたネットテクノロジーのあり方で、社会が何がしか変化しようとしつつあることが提示され、希望めいたものも感じられて、勇気づけられる。
・他方で、しかし、危惧せざるをえないのは、こうしたソーシャルメディアを介した市民の政治参加や、あるいはプログラマの社会貢献などは、それもまた「震災ユートピア」的なものではないのかということである。あるいは、震災以後の政治や社会変革にそれがプラスに作用したのと同じ程度で、それらを通して、ナショナリズム的なものへの影響も著しいものがあるのではないか。後者抜きの社会変革、というのはアルコール抜きのビールみたいなもので、あまり効用がないのかもしれない。後者をどう馴致していくのかというのは課題に思われる。

・「統治」ということについて、本書ではガバナンス(governance)とルビが振られており、governmentではないのだが、そのあたりのことについてもう少し概念的な整理を序章あたりでしておいてもらえると、議論についていきやすいのではないかと思った。序章を執筆した西田亮介がやや「統治」の定義めいたことを書いているので、引用しておこう。

高原の議論における「自由に関するコミュニケーションの不在による社会の機能不全」は三つのレイヤーに分解することができるかもしれない。それは仮に「ヴィジョン」、「ポリシー」、「オペレーション」と呼ぶこともできるだろう。国の形や向かう方向を想像しそれらを確定する次元、それらを具体的な文言に落としこむ次元、そして現場で執行する次元である。政治について言えば、政治的意思決定、政策、施策ということになるだろう。〔…〕また、経営に当てはめてみれば、意思決定層、マネジメント層、現場がそれぞれに該当するだろうか。〔…〕しかしこれらの総体が、ある「統治(ガバナンス)」の良し悪しを決定する。

まとめれば、「ヴィジョン」・「ポリシー」・「オペレーション」の「総体」が、ある「統治」の良し悪しを決定する、ということなのだが、それは政治の分野にとどまらず、企業経営においても見出されるものである。ということはつまり、そしてこの本の各章の観点が多岐にわたるように、本書では「統治」を、普通一般に考えられるような政治の分野に限定することなく用いているようなのだ。「ようなのだ」とお茶を濁しているのは、引用した部分からも分かるように、「統治」の良し悪しの基準は示されてはいるが、「統治」が一体何を指しているのかが、今ひとつわからないからである。ところで、統治形態としての民主主義と言われるとき、そのとき民主主義とは何を指しているのか。主権が人民にあること、つまり立法権と行政権が分離し、前者が後者に優越し、後者は前者をただ実行に移すのみであるという制度のもと、立法権が人民にあることと言っているのか(そうだとすれば、厳密に言ってそれは主権の問題であろう)。あるいは、貴族や一部の社会階級が行政を担うのではなく、まさに人民が行政を担当する、と言う意味においてなのか。アリストテレスにおいては、後者が民主主義を指し、それは支配者の問題と同義であった。しかし、近代以後、おそらくルソー以降、民主主義は立法権の問題として語られてくることになる。つまり、主権の問題として民主主義が語られることになる。そしてそれ以後、主権-権力の問題こそが、政治の第一級の問題であり続けてきた。それに対して、フーコーは主権-権力(誰が統治するのか)ではなく、統治のあり方、統治の原則(いかにして統治するのか)を問題にしてきた。という文脈の「統治」に引きづられて本書を読み始めてしまったから、おそらく「統治」ってなんやねんと分からなくなってしまったのだろうな。
・オープンガバメント、あるいは情報公開というのはフーコーの「統治性」の観点から語るとやはり興味深いものがある。第二章の塚越健司論文では、それがウィキリークスとの観点から語られている。統治と正統性/正当性という問題設定は重要だと思う。
・第四章吉野祐介論文では、ハイエクが政府の役割を知識・情報の深化・進化を生み出す場を作るガーデナー(庭師)と捉えているところと、オープンガバメントにおけるプラットフォームとしての政府の役割との親和性・類似性が論じられている。政府は自由放任ではなく、環境を作り上げるものだ、というのはフーコー『安全・領土・人口』の中でも取り上げられ、ネオリベラリズムにつながりうる源泉の一つと見られているが、それが文明としての情報化社会との兼ね合いで論じられるとどうなるのか、考えたい。

色々と考えさせられるし、根本的に「統治」ってなんぞや、とかいう疑問も湧いてくる良書だと思う。そこで、みなさまに併読おすすめいたしたいのが、以下の本である。

アクセスデモクラシー論 (新アクセス・シリーズ)

アクセスデモクラシー論 (新アクセス・シリーズ)