'12読書日記80冊目 『忠誠と反逆』丸山真男

499p
総計22760p
丸山さんのいわゆる「本店」営業の本。つまりは、日本政治思想史の本である。いままで、ほとんど彼の思想史の本を読んで来なかったのだが、僕は「夜店」の現代政治論みたいな方より、こちらのほうがスリリングで面白く感じた。とりわけ、「忠誠と反逆」は、概念史そのものであり、忠誠/叛逆という対になる言葉の意味の変遷を、社会の変化を視野にいれながら捉えようとするものである。川崎修さんも解説で書いているように、これは日本版共和主義的徳(シヴィック・ヴァーチュー)論である(ただ、もちろん日本の封建社会において「シヴィック」の要素はない)。「思想史の考え方について」のなかで、この忠誠/叛逆の思想史について丸山は次のように言う。日本の武士社会・封建社会は、西欧の契約的なそれと(あるいは中国・儒教的なそれと)比べて、より強権的で、主に対する従の無条件的な忠誠が倫理として、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」という風に説かれてきた。それは確かに言葉通りに受け止めれば、盲目的な服従状態を意味しているが、

そこにはまさにアンビバレントな可能性が孕まれていた。なぜかといえば「君、君たらざれば去る」というのは契約的であり、主君が悪ければ主君のもとを去ってしまうのですから、きわめて捉われない関係ではありますけれども、その代わりその限りにおいて、主君自身を変えてゆこうという積極的要素がここからは出て来ない。〔…〕ところが「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」〔…〕という前提があると、どんなに主君が悪いことをしても、この主君のもとを去るわけにはいかない、ということをいわば自分の宿命として引受、あくまでこの場において主君に仕えなければいけないのだ、という帰結になる。そこから、どうしても主君を正しくしていかなければならないという非常に強い能動的な態度に逆流していくわけです。

忠誠の中に叛逆のカテゴリーとしてあった「諌争」の契機が現れるというのだ。丸山は、大宝律令からさかのぼって明治初期に到るまでの、忠誠/叛逆/諫争の概念カテゴリーの意味論的変遷を見ていくのである。このダイナミックさ!
さらに、ダイナミックで、しかし同時に問題的であり、それゆえいっそう魅力的なのは「歴史意識の『古層』」論文である。「古事記伝」の時間意識として「なる」「つぎつぎ」「いきほひ」という三つのキータームを洗い出し、それらが日本人の政治・社会意識をそれ以後も、絶えず輸入思想の需要と絡み合いながら規定し続けていることを明らかにしているのだ。政治思想と歴史哲学という関係からして、この論文は興味深い。とりわけ「いきほひ」の記述に関しては、僕などはポーコック『マキアヴェリアン・モーメント』前半のアリストテレスマキアヴェリのあたりの循環する時間とvirtu(力)、あるいは「原初への回帰」ということとの類似性と相違を思わずにはいられない。「いきほひ」について丸山は「歴史的劃期いおいては、いつも「初発」の「いきほひ」が未来への行動のエネルギー源となる傾向が見られる」と指摘する。これはマキアヴェリ的な「原初への回帰」でもあるが、日本の文脈においてそれは円環的時間ではなく「つぎつぎ」と継起する前方投射された時間である。興味は尽きないのだが、やや重大な問題だと思うのは、古層論文の方法論である。丸山は自分が解釈学的循環を犯していることに自覚的であり、そこを批判しても仕方がない。むしろ、通奏-執拗低音という方法論に問題があるように思える。それは系譜学/考古学的発想と、つまりはエピステーメー(認識枠組み)の断層の変化を見ていくような発想と対立し、歴史における変化・断裂を見逃してしまっているのではないか、ともすれば決定論になってしまうのではないか。実際、丸山は結びにおいてほぼ諦観しているかのようである。

ところで、家計の無窮な連続[つぎつぎ]ということが、われわれの生活意識の中で占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。しかも経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。

ニーチェの「神は死んだ」世界、ヘーゲル-コジェーブ的な歴史の終焉の世界、そこに日本がつねにすでに到達していたということ、この諦観である。
今度の総選挙においても何が変わるのか、誰が総理大臣になっても同じではないのか、「「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移(まさにつぎつぎ総理大臣だけが変わっていく!)の底知れない泥沼」に陥った日本を見て、丸山のこの諦観に不気味な居心地の良さを覚えてしまうのはなんなのだろうか。「それでもなお」と、あるいは「意志における楽観主義」を取って、政治に向きあうよりほかはないのだが、しかし。とはいえ、今度の総選挙において、もし自民党と維新の会あたりが与党を(連立であれ)形成することになるとすれば、いっそう悲惨なことになる。それだけは避けたい、避けなければならない。