'12読書日記82冊目 Kant and the Philosophye of History, Yirmiahu Yovel

Kant and the Philosophy of History

Kant and the Philosophy of History

306p
総計23521p
1980年に発表されたカント歴史哲学、いやカント哲学における歴史の契機を包括的に探求した研究書。イルミヤフ・ヨヴェルは現在、NYのThe New School For Social Researchの教授で、もともとはイスラエル出身の哲学者である。邦訳書には『スピノザ 異端の系譜』という浩瀚なものや、『深い謎――ヘーゲルニーチェユダヤ人』がある。
本書は、僕が知るかぎりではもっとも理論的にカントにおける歴史の問題を探求した本といえる。歴史哲学の諸問題(批判哲学と「自然の意図」の歴史哲学の不一致など)にとどまらず、カントが構想した批判哲学のプログラムが、これまでの哲学史を乗り越えて自らを最後の哲学と位置づける建築的なものであるということ(『純粋理性批判』の最後)の理論的意味を明らかにしている。批判哲学、ないしは超越論的哲学というのは、その性格上、経験的な歴史とは無縁のものと意識され、カント研究者に取り上げられることはあまりないのだが、カント自身のプログラムとしては極めてこれまでの哲学史、理性の歴史を意識したものとなっているのだ。
僕自身としては、歴史哲学をヨヴェルがどう位置づけるかということに興味があったのだが、ヨヴェルはそれをカントの最高善の議論の補助的なものとして見定める。最高善というのは、簡単に言えば徳と幸福の一致なのだが、よく見てみれば、そこには様々なバリエーションがある。徳福一致というのは「個人」の道徳的な状態を指し示しているが(『実践理性批判』によれば、道徳的に行為する人は幸福に値すべきだとして最高善が示される)、他方で個人道徳ではなく、最高善が提示される時もある(『判断力批判』88節)。それは、世界における理性的存在者の最高の福祉と最高の道徳的善の状態が結合している状態である。後者の最高善の定義において、ヨヴェルは道徳的善と自然的善の一致の状態、つまり、経験的な世界が道徳的に善である状態に変容している世界が目指されていると解釈するのだ。さらに、(ペイトンの定言命法の五分類には含まれていなかったはずだが)ヨヴェルは道徳論のなかに最高善を実現せよという命法があると指摘する*1。そして、この最高善こそが、カントの歴史哲学を導く統制的理念として機能していると、議論をすすめるのだ。最高善が実現された世界は、『宗教論』において倫理的共同体として明確化される。ヨヴェルによれば、この倫理的共同体を実現する目的論的に構成された歴史哲学が、カントのいわゆる歴史哲学的著作以外の哲学的著作に伏流しているという。
ヨヴェルのこうした見方からは、それゆえ必然的に、歴史を動かすのは人間自身であるということが帰結する。道徳的な最高善を実現せよ、という命法が個人に与えられているならば、それはいわば歴史的定言命法だと言うのである。さらに、ここから帰結するのは、「自然の意図」が全面に押し出された『普遍史の理念』はカントの全体的な歴史哲学的構想からはいわば例外的な位置、前批判期的な位置にあるということである。この見方は、かなりヘーゲルバイアスがかかっていると言わざるをえないだろう。僕としてはそういう見方に抗したいということなのだが、それにしてもこの本は「ヘーゲルから見たカントだろう」として切り捨てられらない重要な指摘がたくさんあるように思われる。とりわけ、エピローグにおいてヨヴェルが行うのは、カントの歴史哲学ないしは理性の歴史構想が批判哲学の性質と如何に対立をはらむものであるか、ということへの理論的な困難さの指摘であり(事実、エピローグの記述が一番抽象度が高く、哲学的で難しい)、カントとヘーゲルを比較しながらその論争上の土台の上で新たな「歴史」の意味を考えていかねばならないことを告げている。カント読解に終わるだけでなく、歴史の哲学を構想する強く粘り強い思想があると言えるだろう。
スピノザ 異端の系譜

スピノザ 異端の系譜

深い謎―ヘーゲル,ニーチェとユダヤ人 (叢書・ウニベルシタス)

深い謎―ヘーゲル,ニーチェとユダヤ人 (叢書・ウニベルシタス)

*1:実践理性批判』弁証論では、「幸福は、自分自身を目的とする個人の身びいきな眼だけが幸福とみなすようなものではなくて、およそこの世界における人格一般を目的自体とみなすような、えこひいきのない公平な理性が幸福と判断したものでなければならない。幸福を必要とし、また幸福を受けるに値しながら、しかも幸福に与らないなどということは、理性的存在者の完全な意欲と両立しえるものではない」と言われている