'12読書日記90冊目 『リヴァイアサン』ホッブズ

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈2〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン〈2〉 (岩波文庫)

リヴァイアサン 3 (岩波文庫 白 4-3)

リヴァイアサン 3 (岩波文庫 白 4-3)

リヴァイアサン 4 (岩波文庫 白 4-4)

リヴァイアサン 4 (岩波文庫 白 4-4)

386+457+522+331
総計27598
今までちゃんと読んでなくてめんごめんごめんご・・・と無限に謝りたくなる気持ちになるけど、恥を晒して読書日記。ひとりの機械論者が政治哲学のなかに巨大すぎる一冊をものすという、そのプロジェクトが告げられる序説は何度読んでもしびれるものだ。

自然(神がそれによってこの世界をつくり、それによってこの世界を統治している、その技術)は、人間の技術によって、他の多くの物事においてのように、人工的動物をつくりうるということにおいても、模倣される。

人間の技術によってつくられるこの人工的動物、これこそが、「コモンウェルス、つまりは国家と呼ばれるあの偉大なリヴァイアサン」である。ホッブズにとって、技術は自然の模倣であり、自然とは神の技術にほかならない。人間の技術は、「自然の理性的で最も優れた作品である人間を」模倣するのだ。それゆえ、本書はコモンウェルスを探求するために、その素材となる人間――自然のつくりあげた最高の機械――を分析するところから始まらねばならない。それは感覚、表象、理性、情念についての哲学的考察である。そこからさらに人間本性のうちに書き込まれた自然法への考察へとすすみ、人格とは何かが突き詰められる。ここまでが一巻。で、もちろん有名な設立/獲得によるコモンウェルスの話が二巻に続く。
が、今回僕が読んでいていっそう興味深かった、スリリングだと感じたのは、第三巻「キリスト教コモンウェルス」第四巻「暗黒の王国」、そしてラテン語版への序文である。ホッブズにとって教会権力は宗教戦争を引き起こした諸悪の根源であり、主権は分割できない以上、教会権力といってもその権力はコモンウェルス=主権から委任されたものでなければならない。だが、それを批判するためにホッブズは教会権力を直接批判するのではなく、教会権力、聖職者が依拠している聖書をもとに自らの主張を説き起こすのである。しかも、ホッブズは教会権力だけではなく、アリストテレスからの流れをくんだスコラ哲学をも批判する。それは機械論者からの批判でもあると同時に、スコラ流の聖書解釈に抗うことで自らの聖書解釈の正当性を証しだて、ホッブズ自身が異端とみなされることのないよう、またそれによっていっそう教会権力への批判の妥当性を強めるよう企図されていると考えられるのだ。それゆえ、ホッブズの言説を理解するためには当時のキリスト教をめぐる議論が詳らかにされなければならないだろう。こういうところにスキナーらの思想史研究が出てくる素地があるのだろうな。もろにコンテクスト理解を要求してくるテクストなんだから。
僕としては、カントが論じていることの先取りのような宗教批判、実体-本質批判があり、時にホッブジアンではないかとあらぬ疑いをかけられたりもする(例えば最近では、ジェレミー・ウォルドロンがそうだ)カントの国家論との関係をも考えさせられて興味は尽きない。あるいは、ホッブズからロック・ルソーへという契約しそうの流れと、モナルコマキ(某君討伐論)、あるいは絶対啓蒙君主のイデオロギーがどう関係しているのか、非常に興味が湧いてくる。例えば、教会権力擁護派の代表者の一人としてベラルミーノへの批判に多くが割かれているのだが、その中にこういう議論が出てくる。ベラルミーノいわく、統治者が神聖な利益(神の救済に関する人間の道徳)に関してうまく配慮できないのならば、そういう統治者は廃されねばならない。それに対してホッブズは、神聖な利益などは最後の審判以後に関係することであり、現世的な国家はそれに携わることができないとし、そうした統治者-主権者への抵抗や不服従は認められないとする。そもそもホッブズにとって国家は人民がみずからの権利のすべて主権者に譲渡するという契約を自ら結んで成立するものであり、その主権者に服従しないようであるならば契約違反となるのだ。こうした議論をロックは、国家が人民の所有権を保護するものとして設定される以上、国家がその権利保護が出来ない、あるいはその権利を侵害するなら抵抗して当然だ、というふうに改変したのだった。他方で、ホッブズの絶対的な主権の理論は、絶対君主のイデオロギーと親和的に見える。実際、絶対啓蒙君主(例えばフリードリヒ大王)は自らを「国家の第一のしもべ」として位置づけ、人民の幸福と(消極的)自由を保護するために臣従契約が人民との間で結ばれたと考えた。だが、他方で、絶対主義以前の中世の封建社会においてあらわれた某君討伐論は、君主が人民の幸福を守れないなら(つまり某君になるなら)それは君主の契約違反であり、その君主は討伐されねばならないという。こうしたモナルコマキの論理は、ロックの抵抗権の議論と親和的に見えてくる。このようにして多層なコンテクスト上に浮かび上がってくる、モナルコマキ、ホッブズ、絶対君主、ロックの関わりを僕は不勉強のせいか全然知らない。グロティウスやプーフェンドルフあたりにも目を配らなければ、精確な思想史の流れはわからないだろう。悲しい。おそらくカントはホッブズの主権理論をルソーを介して受け継ぎ、その上でそれを全く反転させて、ホッブズと同じ言葉で「主権は分割できない、抵抗権などという権利は矛盾である」と語っている(もちろんヴォルフの国家論との関係も考えられねばならないが)。つまり、ホッブズが契約によって人民が権利を全て譲渡した上に主権が成り立つのだから人民に抵抗「権」はないと語るのを、カントは全く反転させてしまうのである。カントにとって、人民が自ら立法権投票権を持つためにのみ、すべての権利を国家に譲渡する契約を結び共和制国家が成立する。それゆえ、そこでは、主権者は普遍的に統一された人民である。それだから、一枚岩として構成される主権に対してそのうちの一部分が抵抗するとなれば、自らが自らに抵抗することになってしまうために矛盾だと考えられるのである。このことを逆に言えば、カントの共和制においては、主権=人民=統治者は普遍的に統一されている以上、自らの自由や幸福を破壊するような統治を行うことはありえないのであり、抵抗する権利が起きうるという状態は想定されてはいないのである。それはもちろん、共和制という理性的理念の産物ではあるだろうが。