'13読書日記2冊目 『統治と功利』安藤馨

統治と功利

統治と功利

315p
総計616p
功利主義ルネッサンス」と言われる潮流を巻き起こした中心にある書物である。もちろん、様々な不備はあるだろうし、はっきり言ってリベラルはこの本を読んで激怒すべきである。だが、それにしても、功利主義という魅力を全面的に打ち出そうとした理論的冒険、理論的出発点を明確に位置づけている点、それこそがそうした怒りを引き起こさざるをえないのであり、それは本書の魅力でもあるだろう。僕はこれを院生の友人らと共に読んだ。前半の倫理学の議論の波につぐ波を乗り越えれば、あとは安藤の引く議論についていけるだろう。数式なども出てくるが、それらも何とか乗り越えていくべきだ。そうすれば、安藤が目指す地点の高さ――それは低さでもあるのだが――がよく分かる。
以下は、僕が8章の議論を読んで作ったレジュメに載せたコメントである。否定的な評価をしているが、そうした激怒は引き起こされるべきであり、もっと論争が喚起されるべきではないか。規範理論にも、あるいは政治理論にも専門的に従事していない者の目から見たら、そのように願ってやまない。
安藤の議論の特徴は、個人道徳としての功利主義ではXという問題は論争的で解決されないが、少なくとも統治理論としてはXは要請される、という後退戦線を張ることである。したがって、道徳理論としての功利主義についての詳細な検討はなされてはいるが、統治理論についての検討は充分になされているとは言いがたい。このことが読むものにフラストレーションを募らせる要因ともなっているだろう。つまり、本書では、個人にとって善とは何であってそれがどのような議論において整合的かは考察されるが、どのような統治が良き統治であり、また統治がどのように為されるべきか、なぜ統治がある形態を取らねばならないのか、これらのことについては十分検討されているとは到底言いがたいのだ。
このことは、安藤が統治功利主義の議論の土台に、現実社会の事実説明を据えているところによく現れている。例えば、安藤は社会制度の発達を説明するものとして総和主義を支持している。確かに、総和主義はロールズのマキシミン集計に比べて、社会制度の発達をよく説明するものであるかもしれない。だが、そもそも何をもって、何を基準にして社会が発達していると評価できるのかが問われなければならない。また、そのことから統治に際して総和主義を採用すべきだ、ということには必ずしも結びつかない。あるいは、安藤が採用するような功利主義を満たすということが社会制度発達の基準となるのかもしれないが、そのときには、どうして総和主義がそうした基準となりうるのか、その正当性は何かが問題となるのであり、それについて安藤は明確な答えを与えていないように思われる。
同じことは、時点主義的人格観を統治理論の土台に据えるときにも問題になる。安藤の議論の運びはこうである。人格は愛着だけではなく予期によっても形成されており、その予期はサンクションによってもたらされ、サンクションがいかなるものであるかを功利主義は検討しなければならない。そのサンクションを検討する功利主義は、非個人的価値の加法可能性と不偏的重み付けによる総和主義を採用している。しかし、ここにおいて安藤は、統治功利主義がどうして不偏的重み付けを採用せねばならないのかを明瞭に説明することができない。実際、安藤が認めるように人格論から不偏性を導出することは困難である。しかしながら、安藤によれば、「原理的に他の重み付けを排除できないとしても、統治理論として統治者がこれを採用するように仕向ける場合に、重み付けが偏った統治理論を統治者に採用させたいと思う被治者はおそらくいないであろうから、実践的にはさほど問題にならない」。この場合の被治者は、現実の社会に生き、それまでの統治形態によってあるタイプの予期パタンを形成された「人格」に構成されていると考えて差し支えないだろう。だとすれば、それが例えば男尊女卑や、ある民族に対して差別的であるような慣習を持つ社会の統治形態であれば、どうだろうか。そのときに被治者は「不偏的重み付け」の「不偏性」のなかに女性や迫害された民族を加え入れた上で、それを統治理論として統治者に採用するよう求めるだろうか。脳内で連続性・類似性を持つ「私」という意識主体にのみ愛着を持つ利己主義者は、パーフィット的な議論からも必ずしも排除できず、また、異個人間の利益配分は、結局のところ他の意識主体への愛着=共感の問題であるとすれば、そうした被差別者に対する愛着は期待できそうもない。それなのに、安藤は統治功利主義が統治者に採用されることに、無反省的なオプティミズムを抱いているのである。
不偏的重み付けは、少なくともリベラリズムを自称しようとする統治功利主義にとって相当な重要性を持つはずである。それが時点主義的人格論からは導けないのだとすれば、それは根本的に間違った議論の仕方ではないだろうか。不偏的重み付けを欠いた、予期と愛着を通じた擬制的人格構成論に基づく統治理論は、けっして「規範的」なものではなく、単にフーコー的な権力分析、現実の社会学的分析(それも素朴な)に陥ってしまわないか。さらに、統治功利主義が採用する快楽主義にとって政治的正統性などは存在せず、快楽は理由を超越したものであり、妥当要求としての理由を重要視しないと言われるとき(9章)、多数者の差別的な態度(それが現行の法に抵触しないようなものであれ)もそれが快楽につながるのであれば理由抜きに認められるようなものになってしまわないか。