'13読書日記9冊目 『知の考古学』ミシェル・フーコー

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

427p
総計4731p
中村訳も持っていたのだけれど、文庫版が出たしかも新訳でわかりやすいらしいとのことを聞き、真改訳で読了。確かに、日本語としてすらすら読める。が、内容がわかりやすいわけではない。言表、言説形成、断絶、閾、ポジティヴィテ、アルシーヴ、考古学、歴史的ア・プリオリ、知、エピステーメーフーコーの独特の言葉の使い方に振り回されっぱなしという感じもしないでもない。『狂気の歴史』、『臨床哲学の誕生』、『言葉と物』と三冊書いてきたフーコーが自らの方法論について弁明ないしその意図する射程を語る、というのが本書の内容となっている。フーコーは同時代のフランスのコンテクストをかなり意識して自らの方法を練り上げているらしいのだが、それらについてあまり積極的に名前を挙げることはないので、終始「一体誰がこれを言っとるのだね?」という感覚になるだろう。科学史サルトルデリダマルクス主義精神分析構造主義といったその辺りの思想状況をある程度知らないと、なかなか厳しい。
従来の思想史へのフーコーの批判的な立場は明確で、思想史を研究しようとしている僕などにとってはなるほどふむふむと思わされるところも多い(というか、そもそも歴史記述についての本なので、歴史プロパーや歴史の書き方に興味がある人以外は、あまり読んでいて楽しい本ではないのではないか(概して方法論の本というのはそうだろうけれど))。『知の考古学』のコンセプトを一言で言うなら、これまで「思想史」が無思慮に前提してきた様々な状況は、よく考えてみれば全然確かなものではない、だから新しく歴史の書き方を工夫しなければならない、というものだろう。フーコーによれば、思想史は、歴史のなかに一貫性、影響関係、発達・進化、時代精神などという尺度を持ちだして歴史を語る。だが、これらのものは方法論的に練り上げられたものではなく、言わば無批判的に前提されているに過ぎない。さらに、フーコーの破壊的な考えによれば、そもそもあるディシプリン=学問領域や、書物の統一性など、どうやっても自明視することはできない。やや図式的に言えば、思想史は、言説を作者=主体の発する内面の思想の発露と捉え、思想家や学者といった主体を前提としてその間に歴史的関連付けを行おうとしているとフーコーは言うのである。そして、その代わりにフーコーが行おうとする「考古学」は、主体から出発して主体の思想を明らかにしようとするのではなく、むしろ紙などに書かれた言説のそのままを(解釈するのではなく)対象に分析し、それら言説が形成されるときに従う一連の規則とはなにか、書かれ言われた言表が他の言表と結びつきあるいは差異付けられる時に従う規則とはなにか、そしてそうした言説形成の規則によってむしろ主体が何かを発話するということが可能になるのではないか、こうしたことについて問うのである。
確かに、誰々と誰々のあいだに思想的影響関係があるなどといっても、その影響とはどのようなレベルのものか、その影響によってどのような言説が可能になったのかは、不分明なものであるだろう。複数の人々のあいだに影響関係を指摘することはたやすいが、それが本当に影響と呼べるものなのかどうか、影響を読み解くことでどのような歴史を描いていることになるのか、それらが深く問われることはあまりないかもしれない。複数のテクストに同じような言明があるからといって、それらが同じ言説の規則に従い、同じ機能を果たしているといえるのかということは、結構怪しいものだったりするのだ(布置連関あるいはコンステラシオン、あるいはパラダイムというもっと便利な言葉もあるが、それらはその概念によって捉えられた複数の関係性がどうあるのか問えていないときに使われるのかもしれない。『知の考古学』がこれらの全体的・網羅的な分析概念を否定した上で定義したにもかかわらず、「エピステーメー」は時代遅れになった「パラダイム」という言葉の代わりに安易に用いられているように見受けられるのだ。というか僕がまずそうだったのだが。最初僕にはフーコーが『言葉と物』の中でそのようなパラダイムシフトの歴史を描いたのだと思えた。しかしフーコーは、自分の探求が博物学言語学・政治経済学といった分野における限定された言説の規則を扱ったものであって、同時代的な知全般の包括的な歴史を描いたのではないとはっきり言明している)。言表を出来事として捉えるとフーコーがいうとき、まさにこうした従来の思想史からどう離れて歴史を書くことができるかを問いなおしているのである。「他のいかなる言表でもなくこれこれの言表がそれ自身の場所に現れたということ、これはいったいどういうことなのか」。
最近になって、ようやく方法論的な議論に自覚的になり始めたという残念な事態があって(というのも思想史の論文を書こうとしていて、それがなかなか難しいと思ったからなのだが)、フーコーの議論、とりわけ従来の思想史への批判は身につまされるところが多い。僕の友達の社会学研究者の話を聞いていると方法論的な議論が非常に多くて、昔はそれにうんざりしていた。しかし、彼らは社会学といっても様々に細分化されたなかでそれぞれ研究をしていて、話をするための共通の土台は、社会をいかに分析・観察するかという方法論的なものとならざるをえないということなのだろう。僕も最近ようやく、ある本を読んだとき、この本の方法を自分も使うことができるか?と問うようになった。遅まきながら進歩だと自分では思っているのだが。フーコーの本書はまさにそのものずばり方法論の本なので、触発されるところも多かったのだが、やはり他の思想史家の方法論との関係も気になるところである。例えば、ポーコックやスキナーのように思想家の言説を同時代の論争・思想空間への介入として、つまりはそれをスピーチアクトとして受け取って、ある言説を理解するために同時代の論争状況を踏破するという試みがありえる。フーコーは本書の中でスピーチアクトとしての言表を否定しているが、ある訳注によれば、フーコージョン・サールへの書簡の中で言表がスピーチアクトではないというのは間違いだったと認めたとのことである。そうなると両者の関係はどうなるのか。分かれ目はやはり主体の位置に関する事になるだろう。ケンブリッジの歴史家たちは同時代の思想空間を明らかにすることで、ある言説にこめられた思想家の意図を明らかにできると考えている。他方、フーコーの考古学はそうした主体の意図を明らかにすることを自ら任じているわけではない。やはりむしろ意図などよりもその言説が形成される仕方、その言説がどの領域と結びつきまた非連続的な位置を占めるのか、その規則を問題としていることになる。あるいはさらに、コゼレックなどが始めた概念史という社会史のいち分野はどうか。これについては詳しいことは言えないが、概念と社会の連接関係を彼らは見ようとする。同じ概念が違う使われ方をし、あるいは違う概念が同じ使われ方をする様を見ていくことで社会の変化を(逆もしかりだが)測定しようとするのだ。フーコーの方法はやはりそれらに対してもある程度距離を置いているだろう。確かに、概念の使用のされ方と社会の関係を問題にする点で共通するところはあるだろうが、フーコーの場合は、言説領域と非言説領域(制度、政治的事件、経済的領域)がどのように結び付けられるのか、その規則を問おうとするのだ。単に概念から非言説的領域の変動を、あるいは逆に非言説的領域から概念の変動を問おうとするのではない。言説形成の規則を見ていくことが最重要課題なのであって、その際には、それらの非言説的な実践も規則を形成する要素としては無視できない、ということなのだ。
こうしたフーコー自身の方法論をそのまま採用することは難しいだろうし、むしろフーコーにしかこれはできないのではないのかという気もする(ハッキングなどを読めば利用の仕方がわかるのか?)。だが、彼が思想史あるいは歴史を書くということ、このことが持つ現代に対する役割(嫌な言葉を使えば「現代的意義」)にこの上なく自覚的であり、それは「歴史から学ぶ」といった生っちょろいものではないということ、そこにはやはり刮目するものがある。言表の規則・システムの総体としてのアルシーヴについて、ひとつの時代全体の、ひとつの社会全体の、ひとつの文化全体のアルシーヴを問うことはできないだろう。さらには(フーコーの言う意味での)考古学者は自ら所属するアルシーブを記述することさえできないだろう。というのも、彼が歴史を描くことを可能にしているのは、自分自身が所属するアルシーヴによってであるからだ。

アルシーヴとは、その全体性を記述することの不可能なものであり、その現在性を回避することの不可能なものなのである。アルシーヴは、おそらく時間が我々をそこから引き離せば引き離すほどよりよく、よりはっきりとしたやり方で、諸々の断片、諸々の領域、諸々のレヴェルを通じて与えられる。〔…〕しかし、もしそれがあくまで最も遠い地平のみを記述しようとするとしたら、アルシーヴの記述は〔…〕一体どのようにして自らを正当化し、自らを可能にするものを解明し、自分自身がどこから語っているのかを標定し、自らの義務と自らの権利を点検し、自らの諸概念をテストして練り上げることができるというのか。その記述は、可能な限り、それ自身が従っているポジティヴィテに接近し、アルシーヴ一般について今日語ることを可能にしているそのアルシーヴのシステムに接近しなければならないのではないか。アルシーヴの分析は〔…〕我々に近接していると同時に我々の現在性とは異なるものとして、我々の現在を取り囲み、それをその他性において示すような、時間の縁である。〔…アルシーヴの〕その記述の場所は、我々自身の言説実践からの隔たりであるということだ。この意味において、アルシーヴの記述は、我々の診断のために有効なものである。〔…〕その記述は、我々を、我々自身の連続性から断ち切るのだ。〔…〕それが明らかにするのは、われわれが差異であるということ、我々の理性が諸言説の差異であり、我々の自我が諸々の仮面の差異であるということである。差異とは、忘却され覆い隠された起源であるどころか、われわれが現にそうであり現に生じさせている分散であるということを、そうした診断は明らかにするのである。