'13読書日記11冊目 『身体の比較社会学1』大澤真幸

身体の比較社会学〈1〉

身体の比較社会学〈1〉

386p
総計6066p
今年はフーコー、まさっちーと読んだので生きる活力に不足しないだろう!(きっぱり)
もちろんの代表作。それ以後に書かれたもののエッセンスが全部含まれていると言ってもいい(昨年発表された『動物的/人間的』の萌芽さえある)。大澤先生の議論は精神分析と親和的だと思っていたが、本書では心理学ならびに精神分析の事例が頻繁に引き合いに出され、しかも過程身体→抑圧身体→集権身体→抽象身体…という議論の例証あるいはフックとして使われている。心理学・精神分析がこれほどまでちゃんと議論のなかに組み込まれているとは思わなかったので驚いた。驚いたついでにもう一つ書くと、廣松的な用語・議論が多く見られた。確かに、『世界の共同主観的存立構造』を読んだ時も、大澤先生の議論を想起させられた。つまり、廣松-大澤ではある種の(つまり超越性の存立構造に関する)議論が継承されているのだろう(もちろん大澤先生以外のところにもそうした議論の継承はなされているのだろうが。とはいえこのラインは今どうなってしまっているのだろう?)。また、大澤先生は本書の後も第三者の審級論を継続して行くことになるのだが、本書で用いられた原身体/過程身体/抑圧身体/集権身体/抽象身体という用語は使われなくなっていく。やや煩雑だからなのかもしれない。
大部な著作でしかも抽象的な議論が続くので、読むのに骨が折れるが、やはり僕にとって刺激的な書物である。最大の山場は、第四章「抽象身体と主観性」だと感じた。第三者の審級が十分に抽象化した結果、その支配下にいる各個人は、行為の帰結のレベルではなく、行為の選択のレベルにおいて、つまりどの行為を選択するかという志向作用そのもののレベルにおいて、規範的な枠に閉じ込められる。それは第三者の審級が具体的な場所を持つことなく、各個人の内面において穿たれるということでもある。そのことは、抽象化された規範である第三者の審級に対して個人が常に「私は〜である」という自己正当化を永続的に反復せざるをえないことから帰結する。「私」は指示詞として発話者をさすが、その述定部分「〜である」は個体としての発話者を余すところなく定義することはできない(cf.クリプキ)。しかし、にも関わらず、抽象的な規範が個体を捉えているならば、個人はそのような不完全な「私は〜である」という自己正当化を規範に対して永続的に行わざるをえなくなるだろう。そしてそのような絶えざる反復の効果によって、あたかも完全には到達できないはずの「自己」が擬制されるというのである。このような文脈の中でデリダフッサール批判(自己への現前)を媒介にして、擬制的なものとしての「主体」「主観」が原身体からの論理的演繹のなかに導入されるのだ。
他方で、第三者の審級が抽象化されるということは、それ以前に先行する具体的な第三者の審級を否定し、それをその内に包括するということでもある。言い換えれば、具体的な第三者の審級は、その先向的投射の範囲内にはない差異=〈他者〉に直面するやその確実性を揺るがされてしまうのだが、その〈他者〉さえ自らの圏域のなかに包括してしまうような先向的投射が行われえた時にはさらに抽象化した第三者の審級が定立される。しかしこのことは、言い換えれば、第三者の審級の抽象化は〈他者〉抜きには行われえない、ということでもある(それがたとえ「すでにそうありえた」という先向的な選択の水準に位置づけることによって、〈他者〉の他者たる所以の差異を同一化し、その他者性から逃走することであるとしても)。それゆえ、第三者の審級が抽象化される過程は、各個人の身体にとって〈他者〉が発見される原身体(超越性のゼロ地点、すなわち内在性)への依存度が増し続けるということでもある。超越性が十分に超越性を持つためには、それにともなって逆説的に内在性への依存が上昇しなければならないのだ。原身体から出発し、過程身体、抑圧身体、集権身体、超越身体と超越度を高めていく先に待っていたのは、原身体への回帰なのだ(本書の冒頭にはツァラトゥストラが語った精神の変態(ラクダ→シシ→子供)が掲げられている)。先に抽象的な第三者の審級が自らを位置づける場所として、擬制的な主体性が生み出されたのであった。それはフッサールが意志と記号の純粋な一致として見出した内面の声(表現の純粋形態)にほかならない。それをデリダは自己への現前と呼び、そのような一致状態においてさえ根源的な差異に付きまとわれていると分析したのであった。つまり、抽象的な第三者の審級によって生み出されたかに見えた一貫した主体性は、同時にまったき差異を孕まざるをえないのである。つまり、第三者の審級が局限まで抽象的になるということは、その審級が各身体の内面に孕まれた〈他者〉に依存せざるをえないことが露呈されていくということでもあるのだ。
ここからの議論が、実は非常にスリリングである。超越性(第三者の審級)が内在性(原身体における〈他者〉)に依存せざるをえないということが露呈する過程は、超越性にとって壊滅的である。大澤先生の見立てによれば、この事態はマゾヒズムによって回避される、あるいは適切にはマゾヒズムを帰結する。ドゥルーズによれば、マゾとサドはペアなどではない。マゾヒズムは契約の論理で成り立っている。マゾヒストは自らに苦痛を与える契約を主人と取り交わし、苦痛がもたらされれば快楽が得られるだろうと予期する。ここにおいて主人はマゾヒストに対して単に超越者の位置を占めているわけではない。主人はマゾヒストという内在性の契約によって超越性を得るのである。大澤先生によれば、超越性が内在性にもろに依存していることが露呈し、そのことから超越性が存立の危機に陥るということ、これらのことを回避すべく現れる形態が、マゾヒズムである。マゾヒズムにおいてはもはや超越性は原身体が直面する〈他者〉に依存しているということを隠蔽しようとさえしない。むしろ、内在性が直接超越性を支えるのである。超越的な規範は、各身体にとって意味を与える、決して到達できないものである。しかし、その超越性が抽象化されればされるほど、規範の内実は無化されていく。そうなれば各身体に意味付けを与えるのは超越性ではありえない。むしろ、マゾヒストのように、各身体そのものが直接にあからさまに超越性そのものであろうとするよりほかはなくなってしまう。つまり、マゾヒストのように身体に激烈な苦痛を与えることを求め、それによってかつては超越的な第三者の審級によって付与されていた意味を、得ようとするのだ。逆に言えば、そのような激烈な現実によってしか意味付けは与えられないのである。本書の最後は『アンチ・オイディプス』の読んでいるだけでも痛ましいマゾヒストの訴えをもって締めくくられている。ここから生権力論、ホモ・サケルの形象、自爆テロへと至る道はもう一歩である。