'13読書日記12冊目 『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』R.J.バーンスタイン

根源悪の系譜―カントからアーレントまで (叢書・ウニベルシタス)

根源悪の系譜―カントからアーレントまで (叢書・ウニベルシタス)

430p
総計6496p
原題は"Radical Evil: A Philosophical Interrogation"。アレントの『全体主義の起源』の次の言葉を導きに、カントからヘーゲルシェリングニーチェフロイトレヴィナス、ヨナスと悪についての思想が検討される。

「根源悪」が理解し難いことは、我々の哲学的伝統全体に深く根ざしている。悪魔ですら天上から来たことを認めたキリスト教神学にも、「根源悪」をつくった唯一の哲学者であるカントの場合にも、これは当てはまる。

現代的な「悪」についての考察を始めるために、カント以降の哲学者を問題にしている点では、Susan Neimanのこの本とはちょっと趣が違う。Neimanの本は包括的な悪の思想史で、確か古代キリスト教あたりから中世、ピエール・ベール、啓蒙思想・・・現代まで扱われていた。

Evil in Modern Thought: An Alternative History of Philosophy (Princeton Classics)

Evil in Modern Thought: An Alternative History of Philosophy (Princeton Classics)

本書は、具体的に人数を絞って先行研究を紹介しつつ、悪についての思想をより哲学的に見ていくというアプローチが取られている。少なくともカントの根源悪概念についてはWilleとWillkurの区別も踏まえて結構ちゃんとした議論を展開しているように思う。フロイト以前の思想家についての悪の考察に比べて、レヴィナス、ヨナス、アレントの悪論はやや粗雑というか大雑把というか。というのもそこでは現代における悪――バーンスタインはそれを弁神論を機能不全に陥らせるような20世紀の経験、つまり全体主義や数々の殺戮に求めているのだが――があまり哲学的に規定されていない印象を受けるからである。レヴィナス、ヨナス、アレントはそれぞれ全体主義の悪にどう応答するべきかを考えた点で共通しているとされるのだが、やや問題の射程が大きすぎる。カントからシェリングまでは哲学的に濃密な議論をしているので、残念である。
もっとも印象深かったことといえば、それはヨナスの章で引用されている、エティ・ヒレスムというユダヤ人女性の言葉である。ヒレスムは強制収容所にいる同胞たちを助けて彼らと運命を共にするために、収容所に自発的に出頭する。そして43年にアウシュヴィッツガス室に送られたというのである。彼女日記の中に、その言葉はある。

神が私を遣わすなら、この地上のどんな場所にでも行こう。そして私は、どんな状況でも死ぬまでこう証言する用意ができている。〔…〕一切がこのような事態になったのは、神の過ちではなくわたしたちの過ちだということを。〔…〕そしてもし神が私を助け続けることがないなら、私が神を助けねばならない。〔…〕いつもできるかぎり神を助けるよう努めよう。
おお神よ、私はあなたを助けましょう、あなたが私を見捨てない限り。でもまだ始めたばかりでは何の保証もできないけれど。ただひとつこのことだけが、私にますます明らかになる。あなたは私たちを助けることができないけれど、私たちはあなたを助けなければならないということ、そうすることによって、私たちは究極的には私たち自身を助けるのだということが。ただ一つ重要なのは、おお神よ、私たちのうちにあるあなた自身の一片を救うことなのだ。そうわが神よ、この状況下ではあなたさえあまり多くを変えられないほど無力に見える。

神義論-弁神論は、悪を悪とみなさないか、あるいはその悪がよりおおいなる善へといたる弁証法的な契機とみなす。しかし、全体主義の惨たらしさの極北のあとに――あるいは今日で2年が経った東北大震災の人たちを前に――弁神論を唱えることは、端的に言って反倫理的でさえある(「あなたの苦しみ、死はより大きな神の善なる秩序の支えとなるのですよ」)。全く意味づけられない悪、物語化を拒む悪が、そこには現れてくるのだ。「神を救う」ということは、その悪を、たとえどんなに悲惨な悪でさえ――その悲惨さはその人らの苦しみがまったく無意義だということに発するのだが――人間が責任を負うということ、それによって「神を救わなければならない」ということ。ヒレスムのような人間に誰しもなれるわけではないが、(そしてヨナスの議論には全然乗れなかったのだが)彼女の一節になにか心を強く動かされた気がした。