'13読書日記10冊目 『国家』プラトン

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

456+493p
総計5680p
対話篇とは言われるのだけれど、最初の方以外はソクラテスの口を通じて語るプラトンの独壇場になっていて、あんまり面白くない(いや、その内容は面白いのですが)。「国家」というタイトルを持つのだけれど、そこで論じられることのもう半分は正義とは何か、個人の善き生についての問題を含んでいる。面白いのは議論の仕方で、最初は個人の正義とは何かという事が論じられ、トラシュマコスらがそれに反論していくうちに、今度は大きなもの、つまり国家における正義を考えたほうが分かりやすいだろう、その後でより小さなものにそれを応用してみよう、という順になっている。個人よりも大きくて分かりやすい国家の正義を論じたあと、それを個人にも適用するというこういう議論が説得力があるのかあんまりわからないけど、とにかくそういう順序立てである。と、こうして書いてみるとそれだけのような印象を与えてしまうかもしれないが、『国家』ではあの有名な洞窟の比喩を通じて、イデア論も論じられている。統治者がどのような人物でなければならないかを論じる際に、そのイデア論は出てくる。つまり、統治者は儚く移ろうものを見る人ではなく、不変的なイデア、とりわけ善のイデアを見ようとする哲学者でなければならない、と言うわけなのだ。
やはり議論の際立った特色は、善き国家においてのみ個人の善き生が可能であるということ、この個人の国家への依存関係であろう。善き法を持った国家において教育される中で人々は善き生を送ることができる。アリストテレスはもちろんこうしたプラトンの政治哲学とは全く異なっているが、個人が公的なものへと参加することが善き生であるとする点で、国家における個人の善き生という定式には則っている。以後、中世にいたるまでこのヴァリアントは断続的に出てくることになるだろう。とりわけ、深く印象的なのは、次の一節である。

それ〔哲人王を懐く国家〕はおそらく理想的な範型として、天上に捧げられて存在するだろう――それを見ようと望む者、そしてそれを見ながら自分自身のうちに国家を建設しようと望む者のために。しかしながら、その国が現にどこかにあるかどうか、あるいは将来存在するだろうかどうかということは、どちらでもよいことなのだ。

その他、プラトンの自然哲学が開示されるところや、数学的な議論などは興味深い。『ティマイオス』を読めばいいのだろうな。また、民主政からどうして僭主政が出てくるのかいまいちわからん。