'13読書日記31冊目 『第三身分とはなにか』シィエス

第三身分とは何か (岩波文庫)

第三身分とは何か (岩波文庫)

257p
愛には愛で感じ合おうよ。恋の手触り、消えないように。何度も言うよ。君は確かに、僕を愛してる。迷わずに。シェイエス。アベ・シェイエス



訳者によればシィエスの発音表記がしっくりくるらしいですが…。

憲法制定権力のところはやはり非常に興味深いです。解説を書いている伊藤先生によれば、シィエスの代表制度による権力分立は、モンテスキューのものとは違って、垂直的な関係にある。つまり、憲法制定権力が上位にあって、その拘束を受ける形で立法の代表がいる。カントの代表制とすごく近いような気がします。カントはシィエスの議論をどの程度知っていたのだろうかと想像を巡らせました。憲法制定権力をカントの枠内で捉え返すとどうなるのかも面白い問題です。ルソーの一般意志を引き継ぐ形でカントはそれを根源的契約(普遍的な人民の意志の結合)と言い換えますが、それはしかしルソーと違ってあくまで理念です。だから、その点で言えば、シィエスのように自然状態において人間が国民を為そうと結合契約を結べば、その時点で共通意志が発生し、憲法制定権力をなすのだ、という議論は退けるだろうという気がする。しかし、根源的契約の理念は、すでにして現勢的にも潜勢的にも人民主権を意味しているのですね。
が、やはりカントの議論において憲法制定権力の居場所はありえそうにない気がします。というのも、憲法制定権力は定義上、憲法=国家体制を創設する権力であり、いかなる上位の法の制約も受けないものだからです。確かに、シィエス自然法/実体法を区別して、自然状態の人間が自然法の制約下にあるということを言いますが、それはもはや大した意味を持っていないように見えます。憲法制定権力はむき出しの権力であり人民の共通意志と同義です。逆に言えば、憲法制定権力がありえる空間というのは、法的状態が停止した例外状態なのです。シュミット的な物言いになってしまっていますが、『第三身分とはなにか』を注意深く読めば、シィエスが、第三身分の共通意志を憲法制定権力とするために、特権貴族を国民の規定から外し、言葉こそ用いていませんが国民が共通に服するべき法から除外しているのがわかります。特権階級は「国家の中の国家」であって、本来の憲法制定権力の持ち主である国民に言わば内戦の論理でもって敵対的に対峙しているというのです。カントがシィエスと隔絶しているのは、そしてそれを通じて――あえて思想史を逆転させるような形で言えば――シュミットと隔絶しているのは、こうしたむき出しの権力を可能にする例外状態を徹底して法化しようとする点にあります。
他にも、イングランドとフランスの政体の比較や、国民が――私的な利益ではなく!――党派的な利益に惑わされないようにあらゆる団体を作ることを禁止するということなどが興味深かったのですが、もう少し例外状態に関する戯言を続けると、シィエスにおいて経済的自由主義が結構キーになっているというのははじめて知ったことでした。シィエスによれば、特権階級は政治的のみならず、社会的にも国民の要件を満たしていません。

まず第一に、貴族のカーストは国民を構成する基本的要素のいずれにも位置づけることはできない。身体障害、無能力、生来の怠惰または数々の悪習によって社会における仕事とは無縁の存在となったものがあまりにも多く存在することは、私も知っている。およそ規則というものには例外と濫用が存在するものである。とりわけ広大な国家においてはそうである。しかし、こういった濫用が少なければ少ないほどその国家はより良く治められていると言ってよいであろう。あらゆる国家のうち最悪なのは、たまたま一定の個人がというのではなく、市民の一つの階層全体が、他のものは皆活動しているのに何もしないことをその名誉とし、生産物の最良の部分を、それを作り出すことには一切寄与せずに消費してしまうような国家であろう。このような階層は、その怠惰ゆえに国民とは紛れもなく無縁の存在である。

つまり、貴族はその階級性ゆえに怠惰であり、国民の要件を満たしていないというのです。しかし、こうして貴族階級が例外状態に置かれるのと同時に、「身体障害、無能力、生来の怠惰または数々の悪習」といったカテゴリーに含まれる人もまた「例外」なのです。国民の共通意志が共通利益を目的とするものであり、その目的のためにこそ憲法を制定する権力を持ち、例外化された貴族に敵対的に振る舞うのだとすれば、その憲法制定権力はまた他方で、シェイエスにおいてすでに見られる経済的自由主義のなかで、「身体障害、無能力、生来の怠惰または数々の悪習」といったカテゴリーの人らをも例外化し、むき出しの生権力の対象となるということもほのめかされている――このように読むのは少々やりすぎでしょうか。
シィエスの檄文はなかなか高揚感を誘うものでもあり、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』や『ブリュメール18日』を思い出させるものでもありました。こっからシュミットに進むとなお面白そう。