'13読書日記30冊目 『例外状態』ジョルジョ・アガンベン

例外状態

例外状態

189p
例外状態はすでに『ホモ・サケル』でも生政治的空間を開くものとして論じられていたが、今回は例外状態そのものの系譜学的探求が試みられている。法規範が例外状態についての規定を持つという不可解な逆説は、ローマ法以来継続して政治思想史のなかで取り扱われてきた。それは、一方の極には大統領の緊急事態法のようなものとして、他方の極には革命や内戦のようなものとして現れてくる。法秩序を停止させるにも関わらず法文そのものに銘記されているという、法の外部でも内部でもないような一つの閾に、シュミットは政治的なもの、主権を読み込んだ。シュミットの戦略は、アガンベンによれば、例外状態に関する決断を主権と同一視すること通して、例外状態を法秩序へと繋ぎ留めておこうとするものである。シュミットにおいては、例外状態における暴力は法と関係を保ち、法を創設するという論理によって、例外状態が法的な擬制をまとうことになる。それに対して、ベンヤミンは例外状態がもはや通常の状態と区別されなくなってしまい、単なるアノミーしかなくなってしまっていることを露呈させる。ベンヤミン(のカフカ)の読解を通じてアガンベンがおぼろげに指し示すのは、「政治的なもの」の意味変更である。シュミットから派生してムフに至るような友敵の差異を作り出し、またそれを決定するものとしての「政治的なもの」は、結局のところ法律の力(抹消線を入れられているにもかかわらずなお例外状態において暴力と結び付けられて活動を続ける、という含意がある)にほかならない。それに対して、カフカ-ベンヤミン-アガンベンにおいて「政治的なもの」は、法の抹消ではなく、また抹消したかに見えていまだ活動をやめない法律の力でもなく、むしろ法律の力そのものを停止させ、不活発化し、無活動の状態に置くことである。

いつの日か、人類は法でもって戯れる時が来るだろう。それはちょうど子どもたちががらくたを使って遊ぶのに似ている。それも、それらをそれぞれの規範的な使い方に戻すためではなく、そうした使い方から最終的に解放するためにである。法の後に見出されるのは、法に先立って存在していた、より固有で本源的な使用価値ではなくて、法の後にのみ生まれる新しい使い方である。法によって汚染されてしまっている使い方も、自らの固有の価値から解放されなければならない。この開放を達成するのは、勉学の、あるいは遊戯の任務である〔カフカの「新しい弁護士」が念頭に置かれている〕。そしてこの勉学的遊戯こそは、ベンヤミンの歿後に刊行された断章の一つで、世界が絶対的に所有不可能で法制化不可能な善として現れる、そういう世界の状態として定義されている、例の正義に接近することを可能にする突破口なのだ。

あまりに漠然としていてメシア的でさえあるが、「政治的なるもの」をシュミットとは違った形で指し示す意図は汲める。どのように理解すればいいのかは、分からないが…。アガンベンの――ベンヤミンを踏まえた――診断によれば、例外状態の宣言は、現代においても、単に政治的危機のみならず経済的危機のような状況をも見据えて、通常の統治技術のなかに全般的に組み込まれてしまっている。第一章では第一次大戦以後いやます例外状態のパラダイム化が概観される。盲点だったのは、ニューディール政策が実現されるに至ったのは、全国産業復興法など一連の立法措置を含めて、あらゆる経済生活に介入する権限が大統領に委任されることを通じてだという指摘であった。