'12読書日記74冊目 『裸性』ジョルジョ・アガンベン

裸性 (イタリア現代思想)

裸性 (イタリア現代思想)

221p
総計20502p
アガンベンの論文(エッセイ?)集。平凡社の「イタリア現代思想」シリーズの第一冊目とのこと。情報によれば、第2巻マリオ・ペルニオーラ『無機的なるもののセックスアピール』が発売されており、それにジャンニ・ヴァッティモ『透明なる社会』が続く予定だという。
タイトルの「裸性」だが、Nudità、つまりnudityということなのだが、「裸」ということがいかに思考から逃れ去っていくものかを、神学的な議論の積み重ねの中から読み解いていく。旧約聖書によれば、楽園のアダムとイブは恩寵という見えない衣服に包まれており、お互いの裸を見ても(厳密には裸を裸とは見ていなかったということだが)何にも感じなかったのだが、知恵の果実を食べるやいなや、恥じらいを感じるようになる。裸でいるということは堕落の象徴でもあるということになるのだが、問題はここに生じてくる。神は人間を創造したときに恩寵の「見えない衣服」で人間を包んだのだが、だとすれば、その恩寵を取り払われた裸=人間本性というものは、一体何であるのかということだ。仮に、原罪の以前から恩寵のベールで人間の裸が覆われなければならなかったとすれば、そのときに覆われなければならなかった裸とは一体何なのだろうか。神の創造は善意ある完全なもののはずなのに、裸は当初から恩寵に覆われるべきものとして現れてくる。神学において、こうした聖書の記述からは、つねに裸は衣服とセットにして、つまりは人間本性が恩寵とセットにして考えられてきた、とアガンベンは言うのだ。様々な神学的議論を経巡り、サルトルや現代美術までにも思索のステップを刻みながら、その神学的な装置を解き放っていく手口は、アガンベンの得意技とも言えるだろう。
この他にも、剥き出しの生と現代の承認、現代のアイデンティティを論じた「ペルソナなきアイデンティティ」、アガンベン版「知識人とは何か」とも言える「同時代人とは何か?」、そしてカフカの小説におけるKが自己誣告(ぶこく)のモチーフを通して、法の臨界点・閾を垣間見せようとしているとする大胆でスリリングなカフカ読解「K」などが収録されている。
思うに、アガンベンの議論の面白さは、一見まったく古風で衒学的、遺物趣味に見える神学の議論を網羅しつつ、それを通じて現代的なテーマ、真に哲学的に考察されるべきテーマが編み出されてくる手つきにあるのだろう。二項対立そのものを生み出す装置そのものを考古学的・系譜学的に探求する技は、デリダ脱構築とも違って、むしろフーコー的なのだが、フーコーはそこまで二項対立を内破させるような「閾」を見出そうとする仕事はしていない。シュミット、ベンヤミンフーコーと、ドイツとヨーロッパを往還するようにして思考を練りあげていく様は圧巻である。本書は、『ホモ・サケル』のような重厚な著作ではなくて、軽やかな歩みで神学を謁見し、ややユーモラスな書きぶりで、知的好奇心の素材となりうるものを提示する読み物だといえる。