'13読書日記39冊目 『君主の統治について』トマス・アクィナス

君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる (岩波文庫)

君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる (岩波文庫)

238p
トマス・アクィナスの本編自体は100頁そこそこなのだが、付録に訳者の柴田平三郎さんの非常に興味深い解説が付されていて、中性政治思想史の格好の入門書にもなっている。柴田さんは、本書の解説だけではなく、本書が「君主鑑」というジャンルに属するものであり、それはトマス以前にどういうものであったのか、キリスト教世界がアリストテレスの衝撃以前にどのように政治を考えていたのかなどを、思想史的に明らかにするのである。そして、その上で、トマスの試みたことを、本書だけではなく『神学大全』からも引きながら、示してくれているのである。これはほとんど初学者と言っていい自分にはありがたかった。トマス・アクィナスかー、と思って敬遠している方は、すぐ読めちゃうので、お得感満載です。おすすめ。
柴田さんが言うに、トマスは、ヨーロッパがアリストテレスの衝撃を受けたときに、アリストテレスを拒否するのでも、キリスト教を拒否するのでもない第三の道、つまりアリストテレスキリスト教の調和を目指したのだという。それは例えば、トマスがアリストテレスの「人間は政治的な動物である」をどう訳したのかという問題に象徴的である。politikon zoonは、グイレルムスという人物によってラテン語でanimal civileと訳されていたのだが、トマスはそれをanimal sociale et politicumと訳し直して自著で用いている。この事の意味は、重大である。アリストテレス受容以前のキリスト教世界では、アウグスティヌス神の国』以来顕著に見られるように、人間は原罪以前の無垢な時には政治を必要としない(誰の支配下にもない)状態であったのが、原罪以後、そうした政治を必要とするようになったとして、本性上「社会的動物」ではあっても「政治的動物」ではありえなかった。だからこそ、トマスはアリストテレス政治学』の知見をキリスト教世界において整合させるために、animal sociale et politicumという語を用いたのである。つまり、アウグスティヌス以降の、「社会的」であることと「政治的」であることの断絶が、トマスにおいては解消されたのである。さらに、柴田さんによれば、トマスは『神学大全』において、「支配」の概念を二種類に分類することでキリスト教的原罪観に支配された政治概念を解消(というかアリストテレスモデルに調和)させる。トマスによれば、確かに原罪以前の自然状態では、人は誰かを自分の利益のために用いる、つまり奴隷として用いるというような意味での「支配dominium」は無かっただろう。しかし、無垢な状態にあっても、自由人同士のもとにあって彼らを統率しみちびく任務を持つ人がいる。その意味では、無垢な状態でも「支配者subjectus」は可能であったはずだ。だからこそ、原罪以後にあって人間が政治的動物であり、支配を必要とするのであれば、それは自分の利益のために支配するのではなく、同じ自由人の群れを、その群れの共通善のために支配するということだ、というわけである。
dominium/subjectumの区別が、非常に興味深い形で、私的利益/共通利益の対比に重ねあわせられ、しかもsubjectumはここではまさにフーコーアガンベンが追跡している「統治」の意味合いで用いられているということも刺激的である。事実、トマスは本書のなかで、君主の「統治」について語っており、それはある集団を一定の目的(善き生活)へとみちびくこと、あるいは「万物を最善の方法で配置する」ことなのである。最近、フーコーのいわゆる「統治性」の議論のインパクトのなかで、アガンベンだけではなく、様々な所で統治に関する議論がなされている。これまでの政治思想研究は、いわゆる立法に関する議論が中心に行われてきたのだが、フーコーの議論を受けて、立法権力とは違って、現代風に言えば行政権力の、あるいはドイツ風に言えばポリツァイの、もっと一般的に言えば、権力を行使する仕方についての研究の必要性が痛感されているわけなのだろう。たとえば、最近の日本で言えば、國分功一郎さんの『来るべき民主主義』などはその例だろう。しかし、現代の政治思想家が統治に関する議論を忘れていたとしても、西洋政治思想史においてはまぎれもなく(見えにくかったとしても)統治に関する議論は脈々と受け継がれており、それはとりわけキリスト教的支配モデルに見出されるのだ。トマスは、まさにそういう意味で、神の統治と王の統治をアレゴリカルに考えている。例えば、本書のある章のタイトルは「〔神と王の〕この類似性から統治の方法を学ぶ。神がそれぞれの事物をその秩序、固有の作用および場所によって区別したまうように、王もまた王国において人民を同様に扱う。魂に関しても同じである」となっている。そこでは、神の働きが創造と、世界統治にあるとされ、それが政治に関して国家の創設と王の統治に重ねられる。「王国の創設の理由は、世界の創造の実例から学ばねばならない」のであり、そこでは「事物の生産、次いで世界の諸部分の秩序だった区分が考えられる」し、そこに「異なった種類の事物が配置されているのを見ることができる」。さらに、統治に関しては、人間の統治は神の普遍的支配と類比的な仕方で、個別的支配と言い表される。そこにおいて「理性と人間との関係は、神と世界との関係に等しい」。個別的支配として、王は人間をそれに固有の目的である善き生活へと適切にみちびくことを職務とするのだ。この支配、人々を善き生活、そしてひいては彼岸での浄福へとみちびくのは、聖職者であり、つまりローマ教皇によってなされなければならない。その意味で王の中の王はローマ教皇である(が、真の王の中の王は当然神である)。世俗の王は、教皇に従属しつつ、世俗的な事柄の管理と指導に当たるのである。
王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために