'15読書日記38冊目 『王の二つの身体』エルンスト・カントーロヴィチ

王の二つの身体〈上〉 (ちくま学芸文庫)

王の二つの身体〈上〉 (ちくま学芸文庫)

王の二つの身体〈下〉 (ちくま学芸文庫)

王の二つの身体〈下〉 (ちくま学芸文庫)

まさに驚くべき書物。中世の神学と法学の言語が「対位法」や「転位」を通して混ざり合い、「王という単独法人」という神秘めいた驚嘆すべき概念を生み出したことが、中世思想史の全体を網羅するように語り出される。14世紀以降のイングランドの法文書に頻出することになる「王の二つの身体」とは、死すべき人間としての王の自然的身体と不可死かつ不可視の超越した政治的身体(!)のことであり、まさにここに絶対主義的あるいは近代的な国家の誕生が読み取られるのである。本書の最初、しかし年代的に言えば最も新しい時代に属する興味深いエピソードについてカントローヴィチが述べているところを引こう。それはピューリタン革命勃発の一風景である。

イングランドの政治思想からは、王の二つの身体に関する慣用語をそう簡単に無視し去ることはできない。王それ自体の永遠性と個人としての王の時間性、王の非物質的で不可死の政治的身体と物質的で可死的な自然的身体との区別のように――たとえしばしばまぎらわしくはあっても――明確な区別がなかったとすれば、議会がこれと類似の擬制へと訴えながら、政治的身体としての国王チャールズ一世の名と権威において、自然的身体としての国王チャールズ一世と闘うべく軍隊を招集するようなことは、ほとんど不可能であっただろう。1642年5月27日、貴族院庶民院の宣言によって、政治的身体としての王は議会の手で議会の内部にとどめられたのに対し、自然的身体としての王は、言ってみれば締め出しを食らったのである。議会の理論的主張は次のようなものであった。

王が正義と国家の保護の源であることは承認されている。しかし、正義と保護の行為は彼自身の人格において遂行されるのではなく、また、彼の欲求に依存するわけでもない。むしろそれは、王の裁判所や大臣たちによって遂行されるのであり、たとえ彼自身の人格において王がこれを禁止したとしても、彼らはこの点に関する自分たちの義務を履行しなければならない。それゆえ、たとえ彼らが、王の意志や個人的な命令に反した裁決を下すことがあっても、これらは王の裁決なのである。議会は裁判所であるのみならず、……王国の公的平和と安全を維持し、このために必要な事柄に関して王の意志を宣言するための……評議会でもある。そして、この点において彼らが行うことには、たとえ国王陛下が……彼自身の人格において当のことに反対し、これを阻止する場合であっても、王の権威が刻印されているのである……。

[...]
オックスフォードにいる自然的身体としての王は、議会にとって厄介者となったが、政治的身体としての王は依然として役に立つ存在であった。したがって王は相変わらず議会にいるわけであるが、それは国璽に描かれた肖像として存在するにすぎない――これは、「王(King)を擁護するために王(king)に対して闘え」という清教徒の叫びを正当化する概念を適切に例証したものであった。/また、王の二つの身体という擬制は、後に生じた一連の出来事を離れては理解することもできない。このとき議会は、大逆罪を理由として、「イングランド王として認められ、限定された権力を委託されていたチャールズ・スチュアート」を告発し、最終的には、――1793年にフランスで起こった出来事とは対照的に――王の政治的身体に重大な損傷を与えることも、取り返しの付かない損害を加えることもなく、その自然的身体だけを処刑することに成功したのである。イングランドの国王二体論には、極めて重要な意味を持つ大きな強みがあった。その理由を、ある機会にブラウン裁判官は次のように説明している。

王とは持続体を示す名である。それは、人民が存続する限り、(法が想定するごとく)人民の首長かつ統治者として常に存続し続けるものである。……そして、この名において王は決して死ぬことがない。


国王のこうした政治的身体は、中世スコラ哲学の論理で言えば、まさに「天使」である。天使は人間と同様に被造物であるが、人間と違って有限な時間には属さない。天使は永遠の存在者にして肉体を持たない不可視の存在である。しかし他方で、天使は神による被造物であるがゆえに、人間と同様に地上の時間にも特有の仕方で参与している。つまり、神が無時間的な(一切の変化がなく、時間を創出するがゆえに)永遠の存在であり、人間が有限な時間の内部に属する存在だとすれば、天使は無限に伸張し変転していく時間のなかに存在するのである。さらに言えば、天使は個体であると同時に種であるという特別な存在の位格を持っている。中世後期の団体法論に取り組んだ学者たちは、この天使とその時間性の論理を用いて、地位としての教皇がそれ自体で一つの団体であることを論じる。この論理はさらにイングランドの法学者の議論のなかに転位されて、天使の表象は今度は不死鳥の表象へと変化しつつも、国王という威厳をもった存在が単独法人として表象されることになる……。
これは、本書後半のごくわずかな議論のトリミングにすぎない。本書全体の概要を取り出してみれば、中世全体を通して、「キリストを中心とする王権」から、「法を中心とする王権」へ(ここには、王の典礼から法学への議論の転換も重ね合わされる)、そして「政体を中心とする王権」へと、王権をめぐる言説のパラダイムが移っていくなかで、そしてさらに団体法論の議論の趨勢(ここにも教会法から国法への議論の転位がある)を媒介にして、「王の二つの身体」という観念が生成していくさまが描き出されている。このような枠組み自体興味深く、歴史的想像力を掻き立てるものだが、本書の面白みはむしろ議論のディティールにある。浩瀚な書物であり、中世スコラ哲学やあるいは中世政治思想史の知識が多少必要かもしれないが、その記述は歴史の地層から取り出された様々な(匿名の法学者や神学者、ローマ法注釈者、イングランドのコモン・ロイヤー、ダンテ、シェイクスピアまで)文献の力を十全に引き出していて読者を飽きさせない。歴史家というよりまさにナラティブの担い手としてカントロヴィチが卓越していることは、歴史的資料として引用されるものの内容が抜群に興味深いものであること、そしてそれを抽象的にまとめ上げて際立ったストーリーへと紡ぐこと(全体としてみれば一貫性を欠き、論旨も破綻しているとしばしば評価されているが)、これらに遺憾なく示されている。中世哲学にも政治思想にもさほど関心のない人々にとっても、この書物を紐解いて楽しくなる理由を最後に一つだけ書いておこう。誤解を恐れずに言えば、この書物『王の二つの身体』は、シェイクスピアの『リチャード二世』と最近新訳の出たダンテ『神曲』を極めて面白く読むために書かれた博覧強記の注釈である。ある本はそれ自体で読まれても面白いが、歴史的なバックグラウンドのなかにおいて読まれれば、なお一層その面白みを増すだろう。第三章で解読される『リチャード二世』と最終章である第八章で解読される『神曲』は、「王の二つの身体」の生成の歴史の流れのなかで、読まれることを欲しているのだ。

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

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