ジジェク「パリ襲撃のあとでこそ左翼は自らの根源的な西洋的出自を受け容れなければならない」

スラヴォイ・ジジェクの2015年11月16日の論説(抄訳です)。
http://inthesetimes.com/article/18605/breaking-the-taboos-in-the-wake-of-paris-attacks-the-left-must-embrace-its


2015年前半には、ヨーロッパはラディカルな解放運動(シィリザとポデモス)に熱中していたが、後半には注目は難民という「人道的な」トピックに移った。階級闘争は文字通り後退し、文化リベラル的な寛容と連帯というトピックに取って代わられた。11月13日金曜日、パリでテロによる殺戮が起きると、このトピック(いまだ巨大な社会経済的問題と関係している)でさえ今や、テロの脅威との容赦なき戦いに没頭する民主主義的勢力の単純な反対にあって、勢いを削がれている。

次に起きるのが何かを想像するのは容易い。難民のなかにいるはずのISISのエージェントをパラノイア的に探しだすこと、である。(メディアはすでに難民としてギリシャを通ってヨーロッパに入ってきた二人のテロリストについて喜々として報じている。)パリのテロ襲撃の最大の犠牲者は難民自身であり、真の勝者はといえば、「je suis Paris」のような決まり文句の背後で、両方の側の全面戦争に参加するパルティザンでしかない、ということになってしまうだろう。実際にはこのような仕方で我々はパリの殺戮を非難すべきなのである。たんに反テロリストの連帯を掲げようとするだけではなく、誰の利益なのかという単純な問いを発し続けなければならない。

ISISのテロリストを(「とはいえ彼らの嘆かわしい行為はヨーロッパの暴虐な介入へのリアクションなのだ」というような形で)「より深く理解する」などということがあってはならない。彼らはあるがままに特徴づけられなければならない。イスラムファシストのカウンターパートはヨーロッパにおける反移民のレイシストである。両者は同じコインの表裏である。階級闘争を取り戻そう。そして、そのための唯一の方法は、搾取されている者らのグローバルな連帯にこだわりぬくことである。

[…フレデリック・ジェイムソンへの言及]

少なくとも明らかなのは、混乱を終わらせるために必要なことは、大規模な協働と組織化だということである。そこには、危機が生じている近傍(トルコ、レバノンリビア海岸)に難民受け入れ施設を作るということ、ヨーロッパの中継地点に入国することを許された難民を移動させるということ、そして難民を可能な移住先へと分配するということが含まれるが、それだけではない。軍隊はこのような大仕事を組織的に行いうる唯一の機関である。軍隊にこうした役割を割り当てるなんて緊急事態のようじゃないか、と言うことなど冗長である。何万もの人々が統制されることなく人口密集地帯を通過していくということ、これはもうすでに緊急事態である。そしてヨーロッパの幾つかの箇所はまさに今緊急事態にあるのだ。したがって、こうした事態が放っておいても自ずと解決されるなどと考えるのは馬鹿げている。少なくとも、難民には生活必需品の支給や医療ケアが必要である。

難民危機を乗り越えるということは、いくつかの左翼のタブーを破壊するということを意味するだろう。

例えば、「自由な移動」という権利は制限されなければならない。難民には自由な移動の権利などはない、自由に移動できるかどうかは自分がどの階級に所属しているかで既に決定されている、という事実以外の理由で自由な移動の制限が解かれてはならない。こうして、難民の受け入れと定住の基準が明確な仕方で定式化されなければならない。誰を何人受け入れるのか、どこに彼らを割り当てるのか、といったことである。ここで言われている方法は、難民の欲望(既に親族が住んでいる国に移りたいといった望みを考慮すること)と様々な国のキャパのあいだに妥協を見出すことである。

我々が対処すべきもう一つのタブーは、規範と規則に関わる。実際、難民の多くは、西洋ヨーロッパの人権という考えとは相容れない文化から来ている。解決策としての寛容(互いの傷つきやすさを尊重すること)がうまくいかないことは明らかだ。原理主義ムスリムは我々の冒涜的な画像やあけすけなユーモアに耐え難いと考えている。しかし我々はそれを自分たちの自由の一部だと考えているのである。西洋のリベラルも同様に、イスラム文化の多くの慣習を耐え難いと考えている。

簡潔に言って、事態が紛糾するのは、宗教共同体のメンバーが別の共同体の生活様式を冒涜的だとか不正義だと考える場合であり、後者が直接自分たちの宗教の攻撃をなしているかどうかは関係がない。例えば、イスラム原理主義はオランダやドイツのゲイとレズビアンを攻撃しているし、伝統的なフランス市民はブルカで覆われた女性をフランスのアイデンティティーへの攻撃だとみなしている。それゆえにこそ、フランス市民は自国でブルカに覆われた女性と出会うと黙ってはいられないのだ。

こうした傾向をおさえるためには、二つのことをしなければならない。第一に、宗教の自由や、集団圧力から個人の自由を保護すること、女性の権利といった、最低限誰もが必ず受け入れるべき規範をはっきりとさせることである。こうした規範は「ヨーロッパ中心的」に見えるだろうが、それを恐れてはいけない。第二に、この規範の内部で、様々な生活様式への寛容を無条件に主張することである。もし規範とコミュニケーションが機能しなければ、法律の強制がどのような形であれ適用されなければならない。

乗り越えられるべきもう一つのタブーのなかには、ヨーロッパの解放の伝統に言及することがかならず文化帝国主義レイシズムと同じことになってしまう、というものがある。確かに(部分的にであれ)ヨーロッパには難民を生み出している状況への責任があるにせよ、今やヨーロッパ中心主義を批判する左翼のマントラを振り払うべき時である。

9.11以後の世界における教訓は、こうである。つまり、グローバルなリベラルデモクラシーというフランシス・フクヤマの夢は終わった、世界経済のレベルでは、企業資本主義が世界中で勝利を収めてきた、ということだ。実際、この世界秩序を受入れた第三世界の国々は、いまやものすごい勢いで成長し続けている。文化多様性の仮面は、グローバル資本がもつ実際の普遍主義によって維持されている。たとえ、グローバル資本主義を政策的に補完するものが、いわゆる「アジア的価値観」*1に基づくのだとしても、そうである。

グローバル資本主義にとって、現地の多様な宗教や文化、伝統に適応することにはなんの困難もない。それゆえ、反ヨーロッパ中心主義のアイロニーというものは、グローバル資本主義が当地でうまくやっていくためにもはや西洋の文化的価値を必要としない、まさにその歴史的な瞬間に、反植民地主義を掲げて西洋が批判されているというところにある。簡潔に言えば、(平等主義、基本権、出版の自由、福祉国家といった)多くの価値は批判的に再解釈されれば資本家によるグローバル化に対抗する武器となりうるというのにもかかわらず、こうした西洋の文化的価値が非難されているのである。マルクスによって構想されたコミュニストの解放の理念すべては、完全に「ヨーロッパ中心的」なものだったということをもはや忘れてしまったのだろうか。

忘れ去るべき次のタブーは、イスラムの権利に対するどんな批判でも「イスラム嫌悪」の例証になる、というものだ。自分にイスラム嫌悪の咎めがあると考えられるのでは、と不安になる西洋のリベラルな左翼の多くは、この種の病理的な恐れを十分に示している。例えば、サルマン・ラシュディは不必要にムスリムを刺激したとして非難され、(少なくとも部分的には)死刑宣告を下したファトワにも責任があるとされたのである。こうしたスタンスの結果、予想されうるのはこうだ。西洋のリベラル左翼が自分たちの罪の意識に耽溺すればするほど、イスラム原理主義者から、自分のイスラム嫌悪を隠そうとする偽善者だと非難されるということである。

こうした状況は、超自我の逆接を完璧に再生産している。つまり、サディスティックで原始的な超自我が要求する言わば偽の道徳的行為者に従えば従うほど、道徳的マゾヒズムに陥り、攻撃者と自己を同一視してしまうのだ。このようにして、あたかもイスラム原理主義に寛容になればなるほど、イスラム原理主義による圧力が強まることになるかのようなのである。

同じことは移民の到来についても、確実に言える。西洋ヨーロッパが移民を受け入れようとすればするほど、いまだ彼らの受け入れが十分ではなかったという罪の感情を覚えざるをえなくなる。移民の十分な受け入れということはありえないのだ。さらに、西洋の人々にとって、移民たちの生活様式に対して寛容を示せば示すほど、まだ十分な寛容を実践できていないのだと感じざるをえないのである。


難民の政治経済学:グローバル資本主義と軍事介入
長期的な戦略としては、「難民の政治経済学」と呼ぶしかないようなものに注目しなければならない。それはグローバル資本主義と軍事介入の動力学の根底にある究極原因を照射するものである。現在の無秩序は、新世界秩序の真の相貌として理解されねばならない。現在「途上」国を苦しめている食糧危機について考えて見ればいい。2008年の世界食料デーを記念して行われた国連会議で、ビル・クリントンだけがはっきりとコメントしたのだが、第三世界の多くの国々で起きている食糧危機は、腐敗や非効率、国家介入主義といったいつもの要因のせいにすることはできない。危機は直接的に農業のグローバル化に起因するものなのだ。クリントンの演説の要点はこうである――今日のグローバルな食糧危機が示しているのは、大統領職にあった私も含めてすべての人がそれに責任がある、なぜなら我々は食料作物を商品として扱い、世界の貧困者にとって不可欠な権利としては扱っていないからだ。

クリントンは極めてはっきりと、個々の国や政府ではなくアメリカ合衆国EUの長期的なグローバル政策を批判した。後者は、何十年も世界銀行国際通貨基金といった国際的な経済制度によって実行されてきたものだった。こうした政策によってアフリカやアジアの諸国は農薬や改良種、その他の農業資本にたいする政府助成金を削らざるを得なくなった。その結果、最も肥沃な土地が輸出作物のために使用され、自給率はみるみる低下してしまったのである。地元の農業をグローバル経済に統合することは、こうした「構造調整」の結果であり、その帰結は破壊的なものだった。農民は土地から放り出され、スウェットショップ労働のために設えられたスラムに押し込まれる一方、国の方ではますます食料輸入に頼らざるを得なくなった。このようにして、彼らはポスト植民地主義的な依存関係を維持し、ますます市場の変動に脆弱になっていった。例えば、穀物価格は昨年ハイチやエチオピアのような国で高騰したが、これらの国ではバイオ燃料のために作物を輸出し、その結果、人々は餓死したのである。

こうした問題に適切に取り組むためには、新しい形の長期的な集団行動を創発しなければならない。スタンダードとなった国家介入も、賞賛されすぎている地方自治もうまくいかない。問題が解決されなければ、我々はアパルトヘイト新時代に直面しつつあるのだということを真剣に考えざるをえなくなる。そこでは、資源の豊富な国が、資源が枯渇し絶えざる戦争状態にある国から分断されるだろう。ハイチやその他の食糧不足に陥った国々について、どう対処すべきなのか。彼らは暴力的に反乱する完全な権利を、あるいは難民になる権利を持たないだろうか。経済的な新植民地主義だというあらゆる批判にもかかわらず、われわれはグローバル市場が多くの地元の経済に及ぼす破壊的な帰結をいまだ十分には意識していない。

開かれた(そしてそれほど開かれていない)軍事介入について言えば、結果は十分に語られてきた。失敗国家である。ISISなしに難民は存在せず、アメリカのイラク侵攻なしにはISISは存在しない等々である。死ぬ前にムアンマル・カダフィ大佐は不吉な予言を述べた。「NATOの人々よ、よく聞け。お前たちは壁を爆撃している。アフリカの移民が、アルカイダのテロリストが、ヨーロッパへと至る途上に存在する壁だ。この壁はリビアである。お前たちはそれを破壊している。馬鹿者め、アフリカの何千もの移民のために、お前たちは地獄で焼かれるだろう。」彼は明白に語っているのだ。

[…ロシア人の見解を引用]

しかし、こうしたコメントにいくばくかの一般的な真理があるからといって、そこから難民がヨーロッパへと流れ込んでいるという経験的な事実に飛びつき、責任のすべてを受け入れてはならない。責任は他の国々にもあるのだ。まず、トルコはよく練られた政治ゲームを行っている(公式的にはISISと戦ってはいるが、本当にISISと戦っているクルド人を実際には爆撃している)。そしてアラブ世界自体における階級分裂のこともある(超絶に富裕なサウジアラビア、クゥエート、アラブ首長国連邦はほとんど難民を受け入れていない)。さらに、何百億もの石油貯蔵量をもつイラクはどうか。こうした混沌の一切から、どのようにして難民の流れが生じてきているのか。

周知のように、難民の移動の複合的な経済学が何百万ドルもの利益を生み出している。誰が難民の移動を財政支援しているのか、それを合理化しているのか。ヨーロッパの情報機関はどこにいるのか。彼らはこうした闇の世界を探索しているのか。難民が絶望的な状況にあるという事実は、彼らのヨーロッパへの流入が熟慮されたプロジェクトの一部だという事実を決して排除しない。


もちろん、ノルウェイは存在する
ここでいわゆる私の左翼の批判者に応答させて欲しい。私は上で挙げたタブーを『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』や『イン・ジーズ・タイムス』で破壊したのだが、彼らはそれを問題含みだと見ている。ニックリーマーは『ジャコバン』誌上で、私が「促進している」「反動的なナンセンス」を非難する。

ジジェクにとっては明らかなはずだ。西洋が軍事的に介入するときには必ず、「近時の新植民地主義の罠」に陥らざるをえない。難民は自分たちとしては、他の人の土地に滞在する旅人ではないし、苦しみのもとでしか彼らは存在しない。彼らはそれ自体で「歓待」の対象である。彼らが携えてくる慣習にかかわりなく、彼らはヨーロッパを構成する様々な共同体のメンバーと同等の権利を享受しなければならない。この複数性こそ、ジジェクが驚くべきことに独特な「西洋ヨーロッパの生活様式」に言及するときに完全に無視しているものである。」

この見方の根底にある主張は、アラン・バディウの「ここにいる者はこの土地の者だqui est ici est d'ici」よりもはるかに強い。それは「ここに来たいものはこの土地の者だqui veut venir ici est d'ici」と言っているようなものだ。しかし、仮にこれを受け入れたとしても、リーマーはまさに私の主張の要点を完全に無視している。もちろん「彼らはヨーロッパを構成する様々な共同体のメンバーと同等の権利を享受しなければならない」が、しかし難民が享受すべきこうした「同じ権利」とは実際にどのようなものなのか。

ヨーロッパは今やゲイと女性の完全な権利(中絶圏、同性婚の権利など)のために戦っているが、こうした権利は難民のなかにいるゲイや女性にも拡張されるべきなのだろうか。こうした権利が「彼らが携えてくる慣習」と衝突するとしても(これは明らかだが)、そうなのか。この観点は決して周辺的なものとして無視されてはならない。ボコ・ハラムからロバート・ムガベ、そしてウラジミール・プーチンにいたるまで、反植民地主義的に西洋が批判される場合には、西洋の「性的」混乱が拒絶されていること、そして伝統的な性のヒエラルキーへの回帰が要求されていること、これらはますます明らかになっている。

もちろん私とて、西洋のフェミニズムと個人の人権を性急に輸出すれば、イデオロギー的・経済的な新植民地主義の道具を提供することになることくらい十分にわかっている(われわれはみな覚えているが、アメリカのフェミニストのなかには合衆国のイラクへの介入が当地の女性を解放する方途となるとしてそれを支持した人たちがいた)。しかし断固として私が拒絶するのは、ここから次のように結論付けることである。つまり、西洋の左翼はここで「戦略的妥協」を行うべきであり、「より偉大な」反帝国主義闘争のために、女性とゲイを辱める「慣習」を黙認すべきだ、という結論である。

リーマーは、ユルゲン・ハーバーマスピーター・シンガーといっしょに私を「エリート主義的な政治のヴィジョン――啓蒙された政治階級とレイシストで無知な民衆という対立――」を支持しているとして批判する。これを読んだとき、再び目を疑った。まるで私がヨーロッパのリベラルな政治エリートを詳細に批判することなどいっさいなかったかのようではないか。「レイシストで無知な民衆」について言えば、我々はここで別の左翼のタブーにぶち当たる。確かに残念なことに、ヨーロッパの労働者階級の大部分はレイシストで移民反対である。この事実は決して本質的に「進歩的」な労働者階級の操作の結果として切り捨てられてよいものではない。

[…]
似たような仕方ではあるが、サム・クリスの批判は私が真のラカン派ではないとして非難する点でとりわけ興味深い。

「移民はヨーロッパ自体よりももっとヨーロッパ的であると論じることさえできる。ジジェクは存在しないノルウェイへのユートピア的欲望を嘲っているのであり、移民は母国にとどまるべきだと主張するのである。(ジジェクは分かっていないようだが、ある国に辿り着こうとする人々には当地に既に家族がいるかもしれないし、その国の言語を話せるかもしれない。つまり、こうしたことはまさに統合への欲望に駆り立てられているのだ。しかしまた、これはまさに小文字の対象a [実現不可能な欲望の対象]の作動ではないのか。いったいどこのラカン派が、実現不可能であるというだけで何かへの欲望を諦めろと言うだろうか。あるいは移民は、無意識の精神の快楽luxury[?] に値しないのか。)カレーでは、移民はイギリスへと辿り着こうとして「万人に移動の自由を!」というプラカードを掲げ自分たちの置かれた状況に抵抗した。人種的・性的平等とはちがって、人々の国境を超えた自由な移動は実際に実施されてきた普遍的なヨーロッパ的価値だと考えられている。しかしもちろん、それはヨーロッパ人だけに当てはまる。カレーで抗議する人々によって、ヨーロッパの一部が普遍的価値を支持しているとするいかなる主張も、虚偽だと分かったのである。ジジェクがヨーロッパ的「生活様式」を分節化するときには、つねに曖昧で超越的な一般性によっている。しかしここにこそヨーロッパ的生活様式が具現化されているのだ。もし移民の問題が、反動的で抑圧的な特殊主義に対峙するヨーロッパの普遍主義の一つであるならば、特殊主義もまた完全にヨーロッパの一部をなしている。…「ノルウェイ非実在」は理論的分析ではない。それはヨーロッパの官僚階級にとって耳障りの良い助言の言葉なのだ。もちろん彼らは取りたててラカンに興味を持っているわけではないが。ジジェクが「ラディカルな経済の変革」についてどれほど言い募ったところで、こうした手紙の構造[? epistolary structure]が確証しているのは、変革は今のところ全く問題外だということである。だからこそノルウェイは存在していないし、存在しえない、という主張になるのである。資本主義者はノルウェイを創ろうとはしないし、ジジェクノルウェイを創ることができる人に向けて話そうともしない。これに対してマルクス主義的に応答するなら、次のようになるに違いない。つまり、ノルウェイが存在しないのだとすれば、それを我々自身で創りださなければならないだろう、と。」

「移民はヨーロッパ自体よりももっとヨーロッパ的である」というのは、私もまたよく使う古風な左翼のテーゼである。しかし、それがなにを意味しているのかをはっきりさせなければならない。私が批判的に読むところ、このテーゼが意味しているのは、移民は「万人に自由な移動を」という原理をヨーロッパよりももっと真剣に実現している、ということである。しかしここでも再び、詳しく見なければならない。旅行の自由というような意味での「移動の自由」なのか、あるいは望む国に定住する自由という意味でよりラディカルな「移動の自由」なのか。しかし、カレーの難民を鼓舞している公理は単に旅行の自由ではなくそれ以上のもの、例えば「万人は世界のどんなところにも定住する権利を持ち、難民が移動しようとしている国はそれを彼らに提供しなければならない」というようなものだ。EUは(ある種、多かれ少なかれ)この権利をそのメンバーに保障してきたが、この権利をグローバル化することを要求するのは、EUを全世界へと拡張することを要求するようなものである。

この自由を現実化するために前提とされるのは、ラディカルな社会・経済的な革命にほかならない。なぜか。新たなアパルトヘイトが出現しつつあるからだ。グローバル化した世界では、商品は自由に循環するが人間はそうではない。穴だらけの壁にまつわる言説と殺到する外国人の脅威は、資本家のグローバリゼーションについてなにが間違っているのかをそもそも示している。あたかも難民が自由でグローバルな商品の循環を人間にも拡張したがっているかのようだが、これは現在、グローバル資本主義によって課せられている限界のために不可能になっているのだ。

マルクス主義的な観点からすれば、「移動の自由」は資本家が「自由な」労働力を必要としているということと関連している。何百万人もが自分たちの共同体の生活から引き剥がされて、スウェットショップで雇われている。資本の普遍性は個人の移動の自由と本質的に矛盾した仕方で関係している。つまり、資本主義は「自由な」個人を安価な労働力として必要としているが、同時にまた、万人に同じ自由と権利を賄うことができないがために労働者の移動を制限しなければいけないのである。

ラディカルな意味での移動の自由は、既存の秩序のもとではそのようなものが存在しないというまさにそのためにこそ、闘争へむけた適切な出発点を必要としているのではないか。私を批判する人は難民の要求が不可能であることを認めるが、それがまさに不可能であるがゆえに難民の要求を承認しているのである。その間ずっと、私は非ラカン派、卑しい実用主義として批判されている。不可能なものとしての対象a云々という箇所は、単純に馬鹿げているし、理論的にナンセンスである。私が述べている「ノルウェイ」は対象aではなく、幻想である。ノルウェイに行きたがっている難民はイデオロギー的な幻想の例証である。それは内的な対立[antagonism]を鈍らせるような幻想を形成するのだ。難民の多くはケーキを食べたがっている。彼らは基本的に、自分たちに固有の生活様式を維持したまま西洋福祉国家の最良の部分を期待している。しかし、いくつかの重要な特徴において、彼らの生活様式は西洋福祉国家イデオロギー的な基礎とは折り合わない。

ドイツは難民を文化的・社会的に統合する必要を強調したがっている。しかし――ここにもまた破壊されるべきタブーがあるのだが――どれだけの難民が本当に統合されたがっているというのか。統合を阻むものが単に西洋のレイシズムだけではないとすればどうか。(ついでにいえば、自らの対象aへの忠誠は決して欲望がほんものであるということを保証しない。ほんの少しでも『わが闘争』を読めばわかるが、ユダヤ人はヒトラー対象aであったし、彼は確かにユダヤ人殺戮のプロジェクトに忠実であり続けた。)これが「ノルウェイが存在しないのだとすれば、それを我々自身で創りださなければならないだろう」という主張が間違っている理由である。もちろん、そのノルウェイは難民が夢見る幻想的な「ノルウェイ」ではないだろう、ということもあるのだが。


儀式化された暴力と原理主義[…]
ところで、イングランドロザラムで起きた事件を思い出そう。少なくとも1400人の子供が1997年から2013年までに暴力的な性的搾取の被害にあっていた。11歳ほどの子どもたちが複数の加害者によってレイプされ、拉致され、他の都市に売られ、殴られ、脅迫されていた。[事件の詳細…]検挙されるまで、すでに事件は三回捜査されていたが、なにも結果を上げてはいなかった。ある捜査チームは捜査官のあいだに自分たちが事件を追求すれば「レイシスト」だとレッテルを張られるのではないかという恐れがあったことを記していた。なぜか。加害者はほとんどすべてがパキスタン人のギャングであり、犠牲者は――加害者から「白いゴミ」とよばれていた――白人の女子生徒だったからだ。

事件に対する反応は予想通りのものだった。一般化して言えば、多くの左翼はあらゆる可能な戦略を用いて、事実をぼやかそうとした。ガーディアン誌の2つの記事は、最悪のポリティカル・コレクトネスを発揮して、加害者を曖昧に「アジア人」と表現した。様々な主張がなされた。この事件はエスニシティと宗教にまつわるものではなく、男性が女性を支配することにまつわるものだ、といった類のものだ。われわれは教会の幼児性愛者とジミー・サビルとともに、犠牲になった少数者に対して道徳的に高い地点に立とうというのか。一般市民の不安につけこむイギリス独立党や他の移民反対のポピュリストに、これほど効果的に活躍させるやり方を思いつくことができるだろうか。

誰も認めてはいないが、こうした反レイシズムは実際には、一種のあからさまなレイシズムである。というのも、それは保護者のようにパキスタン人を道徳的に劣った存在、普通の人間の標準だとは考えられるべきでない存在として扱っているからである。

この行き詰まりを脱するためには、ロザラムの事件とカトリック教会における幼児性愛にまさに類似している点からはじめなければならない。どちらの場合も、組織された――儀式となりさえしている――集団行為が問題である。[...]

シウダー・フアレス[メキシコ]の国境付近で起きた女性の連続殺人は単に個人の病理ではなく、儀式となった行動である。それは地元のギャングのサブカルチャーの一部であり、新しい組立工場で働く若い独身女性を狙ったものだった。こうした殺人は、自立した女性労働者という新しい階級に対するマッチョ的反応を示す明白な事例である。急速な産業化と近代化によって起きた社会的混乱は、この展開を脅威として経験する男性のなかに暴力的な反応を喚起する。これら全てに本質的な特徴は、こうした犯罪的な暴力行為は、文明化された慣習の鎖を引きちぎるむき出しの暴力的なエネルギーが自然と爆発したというものではなく、学習され、外から持ち込まれ、儀式化されたものであり、共同体の集合的な象徴の一部だということである。「無垢な」公衆の眼差しに対して抑圧されているのは、その行為が持つ残虐な暴力性ではなく、まさに象徴的な慣習としてのその「文化的」、儀式的な性格なのである。

[カトリック教会における幼児性愛について...]

まさに同じようなやり方で、ロザラムの事件を考察しなければならない。問題は、パキスタンイスラム教徒の若者たちの「政治的無意識」なのだから。問題になっている暴力は無秩序な暴力ではなく、儀式化された暴力であって、そこには具体的なイデオロギーの中身が伴っている。若者集団は、自らが周縁化され服従させられていると知り、支配集団の底辺に位置する少女たちに復讐したのである。イスラムそのものを批判するのではなく(イスラム自体はキリスト教がそうでないのと同様にミソジニーではない)、女性に対する暴力への場所を開けておくものが彼らの宗教や文化の中にあったのかどうかと問うことは、完全に正しい。多くのイスラム教国家や共同体では、女性への暴力と女性の服従、政治生活から女性の排除が重なり合っていることが見られる。

原理主義的集団や運動において、ヒエラルキー的な性差を厳密に課すことが、第一のアジェンダである場合が多い。しかし、同じ基準を(キリスト教イスラム教の原理主義者の)両方の側にたんに当てはめてみるべきだろう。その場合、原理主義に対する我々のリベラルで世俗的な批判もまた虚偽によって汚されてしまっていると認めるのを恐れてはいけない。

ヨーロッパやアメリカでの宗教原理主義に対する批判は、無数のヴァリエーションがある伝統的なトピックである。リベラルな知識人が原理主義者を馬鹿にするような自己満足がまさに蔓延しているがために、本当の問題が見えなくなっている。それは隠された階級対立なのだ。この種の「馬鹿にする」ということの等価物は、難民へのセンチメンタルな連帯と、言うまでもなく虚偽でありまたセンチメンタルな自己警告という謙遜である。本当にやるべきことは、「われわれ」と「彼ら」の労働者階級のあいだを架橋することである。この種の協調(そこには両者相互の批判と自己批判も含まれる)がなければ、階級闘争という問題は文明の衝突へと後退してしまう。しかしそれゆえにこそ、別のタブーが捨て去られなければならないのである。

難民によって引き起こされたいわゆる一般人の不安や心配は、直接にネオ・ファシズムではないとしても、レイシスト的な偏見の発露として切り捨てられることがおおい。我々は本当にペギダとその仲間たちを一般人に残された唯一の道としておいていいのか。

[...]


脅威はどこからやってくるのか
一般人の心配を聞くこと、これはもちろんけっして彼らの立場の基本的な前提を受け容れなければならないということではない。一般人の前提というのは、彼らの生活様式への脅威は外から、外国人から、「他者」からくる、という考えである。やるべきことはむしろ、彼らに将来に対する自分たちの責任を認識するよう教えることである。この点を説明するために、世界の別のところから例を持ってくることにしよう。

[ウディ・アロニの映画『ジャンクション48』(2016年公開予定)からの例]

スパイク・リーマルコムXについての映画には、素晴らしい説明がある。マルコムXが大学で演説したあと、白人の女子生徒が彼に近づき黒人闘争を支援するために何ができるのかを尋ねた。マルコムXは「何もない」と答える。この答えのポイントは、白人は単に何もすべきではない、ということではない。むしろ、黒人解放が黒人自身の作業であるべきこと、善き白人リベラルによって贈り物として彼らに与えられるものではない、ということをまずは白人が受けいれなければならない。これを受けいれることによってはじめて、白人は黒人を支援するためのことができるようになる。[…]

海外の脅威に対する母国の排外主義を本当に破壊するためには、そのまさに前提となっているもの、つまり、どんなエスニックグループにも自らの本来の「原住民的故郷 [Nativia]」があるという前提を拒否しなければならない。

[…サラ・ペイリンが2015/9/7のあるインタビューで、アメリカへと帰化した移民に「母国へ帰ってください」と頼むべきだと答えた。そして、ネイティブ・アメリカンには帰る場所があるのかという質問に対して、さらに彼らはNativia、どこであれ彼らが生まれたところに帰るべきだと答えた、という偽の記事の紹介]

不幸なことに、この話は――話がうますぎて信じられない――『デイリー・カラント』で華麗に演じられた悪ふざけだとすぐに分かった。しかし、「これは本当ではないにしても、十分ありえることだ」。この記事のバカバカしさの本質において、移民反対派の構想を支えている隠された幻想が明らかにされている。それは、今日の無秩序な世界においても、われわれの悩みの種となっている人々が本来属している「故郷」がある、というものである。この構想はアパルトヘイト期の南アフリカでバントゥスタンの形で実現した。[...]

しかしまた、こうした考えに付け加えられるべきなのだが、多文化主義者あるいは反植民地主義者による様々な「生活様式」の擁護の仕方も間違ったものである。彼らの擁護の仕方は、これらの特定の生活様式の相互の対立を覆い隠してしまう。暴力行為やセクシズム、レイシズムは特定の生活様式の表現として擁護され、それを他の価値観、つまり西洋の価値観によって評価する権利はいっさいない、というのである。ジンバブエ大統領ロバート・ムガベが国連総会で行った演説は、反植民地主義者が暴力的なホモフォビアを正当化するものとして持ち出す擁護の仕方として典型である。

[…ムガベの演説]

ムガベが語気を荒げて「我々はゲイではない!」と主張することは、何を意味しうるだろうか。確かに、ジンバブエにも多くのゲイが実際に存在する。それが意味するのはもちろん、ゲイが抑圧されたマイノリティになってしまっており、彼らの行為はそのまま犯罪となっているということもしばしばだ、ということである。しかし、ムガベの主張の根底にあるロジックは分かるだろう。ゲイ・ムーブメントはグローバリゼーションが与える文化的な影響として認識されているが、他方でグローバリゼーションは、ゲイに対する闘争が反植民地闘争の一側面として現れることになる、そのような伝統的な社会的・文化的な形態を破壊している、というのだ。

同じことは、例えばボコ・ハラムにも言えないだろうか。ムスリムの中には、資本家による近代化のもつ文化的影響がいかに破壊的であるかということの最も顕著な例として女性解放を挙げるものもいる。それゆえ、ボコ・ハラムは――大雑把に説明的に翻訳すれば「西洋の(とりわけ女性)教育は禁止される」ということになるが――二つの性別の間にヒエラルキー的な規制を設けることによって、近代化が持つ破壊的な影響に対抗する手段として認識されうるのだ。

謎めいているのは、次のような事態である。イスラム原理主義者が、一方で搾取や支配、その他の破壊的で屈辱的な植民地主義の諸相に直面していることは疑いえないが、他方でなぜ(少なくとも我々にとって)西洋の遺産の最良の部分――平等主義と個人の自由――を攻撃するのだろうか。答えは明らかだろう。彼らの狙いはよく選別されているのだ。リベラルな西洋をかくも耐え難いものにしているその理由は、彼ら[西洋]が搾取と暴力的な支配を実行しているだけでなく、被害に屈辱を重ねるようにして、この暴力行為をまさにその正反対――自由・平等・民主主義――を装って提示しているということである。

[…]

それでは、ヨーロッパが民主主義的な開放性が排除にもとづいているというこの逆接を受け入れるとすればどうか。言い換えれば、ロベスピエールがかつて述べたように「自由の敵に対する自由」は存在しない、とすればどうか。原則として、このことはもちろん正しいが、ここではより具体的に物事を語るべきである。ある意味で、ノルウェイで大量殺戮を行ったアンドレアス・ブレイヴィクはターゲットを正しく選択した。彼は外国人ではなく、自分のコミュニティのなかにいる、外国人を排除することに寛容すぎる人々を攻撃したのである。問題は外国人ではなく、我々自身の(ヨーロッパの)アイデンティティーなのだ。

現在のヨーロッパ連合の危機は経済と財政の危機であるように見えるが、それは基本的な側面においてイデオロギー政治的な危機なのである。数年前に行われたEU憲法についての国民投票を見れば明らかにわかるが、投票者はヨーロッパ連合を「官僚支配的」な経済同盟だと認識しており、そこには人々を動員しうるいかなるヴィジョンも存在しなかった。ギリシャからスペインに至る近年の抵抗運動の波が現れるまで、人々を動員し得る唯一のイデオロギーは移民に反対しヨーロッパを守りぬく、ということだった。

勢いをなくしたラディカルな左翼のあいだには、1968年の運動の直後に起きたテロリズムに対する偏愛をもっと柔和な形で繰り返そうという考えが広がっている。それはまったく馬鹿げた考えだが、ラディカルなカタストロフ(とりわけ経済的なもの)によって大衆が目覚め、ラディカルな解放の新しい契機となる、というのだ。この考えの最新バージョンは難民に関係している。極めて多くの難民が流入してくることによって(そしてヨーロッパが期待に答えられないことが明らかなために難民が失望することによって)ヨーロッパのラディカルな左翼は活気を取り戻すだろう、というのだ。

私はこの種の考えは時代遅れだと思う。こうした展開が実際には移民反対派の暴力性をとてつもなく高めるという事実だけではない。この種の考えがまさに馬鹿げているのは、それが失われたラディカルなプロレタリアの空隙を、プロレタリアを海外から輸入してくることによって埋め合わせようとする企図だからである。輸入された革命の闘士によって革命がなされるだろう、というのだ。

このことはもちろん、リベラルな改革主義で満足すべきだ、ということを決して意味しない。多くの左派リベラルは(ハーバーマスのように)現在のEUの没落を嘆き、過去を理想化しているように見える。「民主主義的な」EUが失われたと彼らは嘆いているが、そんなものはそもそも存在しなかったのだ。近年のEUの政策は、例えばギリシャに緊縮財政を強いているが、それらはヨーロッパを新しいグローバル資本主義に適合させようとする必死の試みにすぎない。大抵の左翼リベラルがEUを批判する際には――基本的には問題がない、「民主主義の赤字」を除いては――、旧共産圏の国々を批判していた人々が、基本的にはその国々を支持しながら、民主主義が存在しないことに対してだけは不平を漏らしていたのと同様の、ナイーブさを示している。どちらの場合も、「民主主義の赤字」はグローバルな構造の本質的な部分であったし、今もそうなのだ。

しかしここで、私は単にペシミスト的な懐疑に終始したいとは思わない。私は最近ドイツでもっとも大きい新聞である『南ドイツ新聞』の読者からの難民危機についての質問に答えているのだが、その質問というのはとりわけ民主主義について関心を非常に掻き立てるもので、右翼ポピュリズム的なひねりがきいている。例えば、アンゲラ・メルケルが何十万もの人々をドイツに招き入れるとする周知の大衆アピールを行ったとき、彼女の民主的な正統性はどこにあるのか。彼女は一体どのような権利にもとづいて、民主的な協議もなしに、ドイツ人の生活にこのような根本的な変化をもたらすようなことができるというのか。もちろんここで私は、移民反対派のポピュリストを支持したいわけではなく、むしろ民主的正統性の限界についてはっきりさせておきたいのである。同じことは、国境をラディカルに開放しようとする者にとっても当てはまる。我々の民主主義はネーション=ステイトの民主主義である以上、自分たちが要求することが民主主義の停止であるということに彼らは気づいているのか。実際、彼らの要求によって、国民の民主的な協議ぬきに、巨大な変化が一国の現状に引き起こされることになるのだ。(彼らがこれにこたえるとすれば、もちろんこうなるだろう。つまり、難民にもまた投票する権利が与えられなければならない、と。しかしこれは難民が一国の政治システムのなかに既に統合されてからしかおこりえない手段であり、あきらかに不十分な答えである。)同様の問題は、EUの決定に透明性を増すよう要求する場合にも生じる。私が危惧するのは、多くの国では公衆の大半はギリシャの負債の縮小に反対であるのだから、EUの協議がもっと開かれたものに変わってしまえば、反対派の国々の代表者はもっと苛烈にギリシャ反対を打ち出すだろう、ということである。

我々はここで伝統的な問題に直面している。大多数がレイシストやセクシストに与する法律に投票する傾向を持つとき、民主主義はどうなってしまうのか。解放の政治学は、正統性を調達する形式的・民主的な手続きによって、ア・プリオリに限界づけられるべきではない。しかし、人々は自分たちが何を欲しているかを知らないことが非常に多いし、あるいは知っていることを求めたり、単に間違ったことを求めたりするのである。ここには単純な抜け道は存在しない。

我々は間違いなく、興味深い時代に生きている。

*1:[リー・クアン・ユーが提言したもの]