こんな風にして民主主義は終わるのか/デイヴィッド・ランシマン

ケンブリッジ大学政治学者デイヴィッド・ランシマンの大統領選挙に関するエッセイの翻訳です。
センセーショナルなタイトルですが、これはいわば反語で、ポール・クルーグマンが言うようには、アメリカは失敗国家になったのではないというわけです。ランシマンの見解としては、国家の基本的な制度上の仕組みによって、ブレクジットもトランプも、結果が温和なものとなるだろうというものです。ブレクジット派もトランプ派も、自分たちの選択によって本当に国家を生まれ変わらせるような破滅的な結果になるわけではないと思っているどころか、国家が自分たちの選択の打撃を吸い取ってくれる、その破滅的になったかもしれない帰結から自分たちを守ってくれる、そう思っています。彼らがそうした選択を行ったのは、単に国家を懲らしめてやろうというそのような思いからだけだ、というのです。ブレクジットを選択しようが、トランプを選択しようが、現状は何も変わらないと分かってはいるが、にもかかわらずブレクジットを、トランプを――一抹の期待を込めて――選択してしまう。が、変わってほしいはずの国家が備えている基本的な制度設計によって、そのような変革は生じないし、ありうる危険も温和なものとなってしまう。こうしたことは、日本では(違う形ではあれ)大澤真幸が言っているように、アイロニカルな没入として理解できるかもしれません。ランシマンによれば、しかしこうした振る舞いが続けば、民主主義の基本制度は疲弊し、破壊されてしまいかねない、というのです。ポジティブな処方箋が提示されているわけではないですが、冷静な分析として、あるいはこうした「危機」のイギリスにおける経験者として、興味深いものがあります。

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選挙の夜、考えることのできないことが冷淡な現実となったことが明らかになってから程なくして、ポール・クルーグマンアメリカ合衆国は今や失敗国家(failed state)なのかとニューヨーク・タイムズ紙で問うた。たいていはアメリカの民主主義だけを見事に切り離して研究している政治学者は、アフリカやラテンアメリカに注意を向けはじめている。彼らが知りたいのは、権威主義が選挙に勝利し、民主主義が何か別のものに化けたとき、何が起こるのかということだ。テロリストを家族もろとも殺すと誓ったあのデマゴーグは、自分の家族とともに大統領官邸へと引っ越す途中である。彼が職に就く前でさえ、彼の子どもらは権力の座に種をまかれつつある。彼はテレビの中、金ピカに飾って登場し、妻はその脇、三人の子供はその後ろに整列し、パパが与えてくれるものを受け取る準備をしている。また、彼はツイッターに戻ってくると、今度は勝利を盾にして言いたい放題、新聞雑誌の論敵に食って掛かる。十歳の息子は参加するにはまだ若かったが、選挙の夜は父の側に立っていて、懐柔の意図の明白な勝利演説をトランプが行っているとき、我々の誰よりもボオっとしているようだった。懐柔の言葉の後には統治機構に対する淡々とした個人的評価が続き、子どもらはそのあいだ列席していた。このようにして民主主義は終わるのではないだろうか。
誤った問いがあると言ったとしても、アメリカという共和国が、いや世界が直面している危機を見くびることにはならない。アメリカ合衆国は失敗国家ではない。どうしてか。アメリカが失敗国家だと言ったのはまさにトランプなのであり、それは選挙期間中のことであって、彼は嘘をついていたからである。彼は自分の国のことを制度が失敗し、広く腐敗している場所だと説明した。都市は暴力に苦しみ、政治的階級は私腹を肥やすことにしか興味がないのだとも説明した。人々が彼の言葉を信じたから彼は勝利したのだと考えるなら、大間違いであろう。人々がトランプの言葉を信じていたとしたら、彼には投票しなかっただろう。トランプのような人を大統領職につかせたら、最悪のことを制限なくやらせてしまうことになるのだから、アメリカの民主主義は終わってしまうだろう。人々がトランプに投票したのは、彼の言葉を信じていなかったからである。人々は変化を望んだが、同時にまたアメリカの政治制度が基本的には永続的で、ちゃんとしたものであると信じており、望まれた変化によってもたらされる最悪の帰結から免れさせてくれると思っていたのだ。彼らはトランプにシステムを揺さぶってほしいと思ったが、そのシステムにはまたトランプのような男の無謀さから守ってくれることをも期待したのである。それ以外にどうやって説明できるだろう。トランプが大統領につくのが不安だと述べていた多くの人らもまた、トランプに投票したのだ。クリントンの陣営が根本的に間違っていたのは、トランプをホワイトハウスに入れさせない理由として、彼の性格のあからさまな欠点をターゲットにしようとしたことだった。トランプ支持者にとってそうしたことはすっかり承知のことだった。トランプの性格の欠点をあげつらっても、民主党支持者はオオカミ少年のようにしかならなかったのである。あいつらの言うとおり、もしこいつが危険なのだとして、本当にまともな大統領候補なんかになれただろうか。いや、あいつらが危ないというのだからこそ、彼はまともな大統領候補なのに違いない。だから、あいつらが言うほどには危険じゃないんだ――というわけである。

これが西洋の民主主義が直面している危機である。我々は失敗というものがどんなものなのかもはや分からないし、どれほど危機的な状態にあるのかも分からない。失敗国家という言葉は現在の状況にはあっていない。というのも、それは現代のアメリカ合衆国のような社会には完全に合わないものをイメージさせるからだ。今後、市民が広範囲に対立するということもないだろうし、路上に戦車が現れることもないだろう。テレビで秩序は回復したと将軍が述べることもないだろう。トランプの勝利は全国で行き当たりばったりの抗議に出迎えられたし、そこには時折暴力もあった。彼が僅差で破れ、敗北を認めることを拒否していたら、話は別のものになったかもしれない。しかし、そうだったとしても、アメリカの公的秩序が崩壊していただろうと考えることはできない。もちろん暴力沙汰はひどくなっただろうし、その多くは憎むべきものにはなっただろう。だが体制に対して幅広い武力抵抗がなされるなどということは、やはり想像し難い。アメリカは、政治が崩壊したときに何が起きるのか我々が知っている、そのような社会ではない。そうした社会には1930年代のヨーロッパが含まれるが、それは窮地に立たされている物事への警告として取り上げられることが多い。現代のアメリカはかつて民主主義が失敗したことのあるどのような社会よりも遥かに繁栄しているし、それはその繁栄の分配がいかに不平等なものであったとしてもそうだ。人口の年齢の中央値が20代前半にあるという社会では、無秩序が生じやすい。しかしアメリカではその中央値は40代に達しようかというものである。アメリカの若い世代は遥かに良い教育を受けているし、あるいは少なくとも遥かに長く教育を受けている。その暴力の度合いは、たしかに21世紀のヨーロッパ水準では高いとは言え、歴史的な水準から言えば低いものである。アメリカの不満は、こうしたことが全て正しいとしてもそれでも事態はこれからひどく悪化しつつあるという、そのような社会の不満である。これは第一世界の問題なのだ。だからといって問題が深刻でないなどということはない。むしろ、これから起きることに歴史的な先例を見出すのが難しいということなのだ。

クリントンの選挙陣営は、後半はオバマも巻き込んでだが、あたかもトランプが基本的な民主主義的規範からの逸脱者であり、彼が勝利すれば一切が台無しになってしまうかのような言い草であった。実際、二回目の候補者討論で、クリントンはトランプのことを敵対する国外勢力に奉仕している、ロシアの太鼓持ちだと非難した。これが本当だったとすれば、国防体制はすぐにでも共和国を守るためのアクションに打って出なければならない。テレビには軍の将官が現れて、敵の手に落ちた核の暗号のリスクについて適切な反応を見せるだろう。しかしそのかわりに、アメリカ国家は急速に通常通り新しい主人を受け入れ、彼の大義名分に奉仕し、その大義を合理的な仕方で実行化しようとしさえしてきた。オバマがテレビに登場し、トランプがうまくやることを願っていると語った。トランプがうまくいけばアメリカもうまくいくのだ、と。このことが示唆しているのは、トランプに投票した人らは自分たちの選択がもたらす害を和らげるために、システムがあらゆる権限を駆使するだろうと正当にも考えているということである。このことはまた、もしトランプがアメリカの民主主義に深刻な脅威をもたらすとすれば、我々はそれを表現する言語を欠くであろうということをも意味している。

しかし、オオカミ少年の真の危機はもう一方の側に存在する。トランプは、アメリカは壊れた社会であり、彼はそれを修理しにやってきたと語った。しかし、アメリカは彼が言うようには壊れておらず、それだからトランプはそれを修理することができない。これはポッタリー・バーンの法則の逆である。君が壊したわけではないから、君のせいじゃないよ、というわけである。その代わり、トランプはもっと従来の政治家のようにならなければならないだろう。公約を裏切り、熟練のワシントンの役人を登用して難局を切り抜けなければならない。その局面ごと押し流してしまうのではなく。これはすでに起こり始めている。こうした見込みに関して本当に恐ろしいのは、トランプには難局をどうやって切り抜ければいいのか、その経験がないということである。彼は政治家ではないし、ふらふらと不器用に、あからさまな不能ぶりを定期的に見せつけながら、ひどい結果になるかもしれない。そうなれば、こうした出来事はあらたなトランプ的大言壮語の波によって覆い隠されてしまうかもしれない。これはきっとスティーブ・バノンやブライトバートの仲間たちの仕事だろう。『ウエスト・ウィング』にはこうしたことがすでにちゃんと描かれている。彼らはそこで大失策を演じるが、新たな陰謀理論でそれをなかったことにしようとする。しかしまた、トランプの不能ぶりはアメリカ国家の機能的な能力によっても和らげられるだろう。それは大量の無能な政府をも緩和できるように設計されており、本当に出来の悪い人らがうまうまと統治する可能性を塞いでいる。優良な大統領よりもできの悪い大統領が多く存在した国において、トランプもまた例外にはならない。歴代で最もひどいとしても、そうである。

シリコンバレーの億万長者、ピーター・シールは危険を顧みず投票日前にトランプ支持を公言し、今やその見返りに政府に椅子を用意してもらっているようだが、彼いわくトランプ大統領は現実を精算するという。それが本当だったら、現実は巻き返しの良い機会となったかもしれない。その代わり現実は、さらに別のこけおどしと混乱によって目下の事態を覆い隠してしまっているようである。シールのトランプ擁護論の核心はこうである。クリントンに代表される世代(ベビーブーム世代)は、厳しい真実に直面するのを避けて心地よい生活を続けたいと望むのに必死で、次から次へとバブルを膨らませてきた。株式バブルや不動産バブルのことではない。むしろ、人道主義的バブルやポリティカル・コレクトネスバブル、とにかく目下の事態という狼を締め出しておくためになんだっておこなった――シールはこう考えているのだ。だが、トランプ――彼もまた同じ世代であり、誰よりも甘やかされてきた――が何か違うものを提供するなどという考えはお笑いである。トランプバブルは最も大きいバブルになりそうだ。

トランプの喫緊の課題は大幅な減税とともに大規模なインフラ法案を議会に通すことである。ほとんど邪魔者はいない。減税については共和党員、インフラプロジェクトは民主党員を頼みにすることができる。この刺激が経済に与える短期的な効果は時間稼ぎに使われるかもしれないが、他方で他の選挙公約に取り組むことには失敗する。移民、製造業、テロリストへの戦い、家庭での愛の共有といったことである。束の間は、対立する党派それぞれになにがしかを与えることで分断を架橋し始めたところだと、主張しうるかもしれない。しかし、トランプがやろうとしていることは、大きく開いた裂け目を覆い隠すことにすぎない。財源のない支出とカップリングされた減税はインフレを焚き付け、将来の暴落の条件となるだろう。それはまた連邦準備銀行と正面衝突するだろうし、そこでトランプはそう簡単にはやっていけないだろう。ジャネット・イエレンをクビにするか委員会を彼が任命した人らで埋めるかしようとすれば、一段と党派心が目立つことになる。そうなれば、毒舌攻撃に転じるかもしれない。しかしそれまでに時すでに遅しとなっているかもしれない。彼は板挟みに合うだろう。

他方で、アメリカ社会が直面する本当の長期的な脅威は、解消されないまま続いていくだろう。直接的な政治の暴力のリスクばかりを注視することで置かれる障害は、トランプが比較的安々と除去することのできる低いものである。アメリカ社会に存在する真に破壊的な暴力は深層で起き、その被害者以外の人には気づかれないままとなることも多い。刑務所制度の暴力は、青年人口の大きな部分、とりわけ若年のアフリカン・アメリカンの男性を収監し、その権利を剥奪している。白人の白人に対する暴力の蔓延は、1999年以来およそ1万人の命を奪っていると推定されており、経済学者のアン・ケースとアンガス・ディートンが2015年の論文で着目するまでは、多かれ少なかれ気にも留められてこなかった。これらの死は自殺か薬物、アルコールの過剰摂取といった自傷的な暴力の結果であり、それはとりわけ、ものすごい数がトランプに投票した地域――南部、アパラチア地方、さび地帯[米国中西部・北東部の鉄鋼自動車産業など斜陽産業が集まる地帯]――に住む白人アメリカ人に影響を与えている。こうしたコミュニティにいる人々は他の人を殺すよりも自らを殺してしまうことが遥かに多く、彼らは自分の親よりも若く亡くなる。こうした傾向は発展した社会に特有のことである。トランプの勝利はこうした蔓延する暴力の被害者に表面上の休息を与えるかもしれない――自分らの自己嫌悪のいくらかを外に向けさせる機会となるかもしれない――が、彼らが根本的に希望を失ってしまった原因を取り除くことにはならないだろう。アメリカというのは、生産年齢人口のうち、ちゃんとした生活への機会を断念する人々が多く存在し、またその機会を暴力的な刑事司法制度に奪われてしまっている人々もいる、そのような社会なのだ。アメリカが失敗しているとすれば、この点においてである。トランプ・バブルが弾ければ、この現実は精算されなくなってしまうだろう。そしてむしろ、さらにいっそう裏切られたという感覚がつのることになるだろう。

トランプ政府は気候変動に関する選挙公約を難なく実行するだろう。というのも、トランプは何も公約していないし、なにもしないということは比較的簡単だからである。オバマのもとで推進された環境のアジェンダ全体をなかったことにするのは骨の折れることかもしれないが、オバマアジェンダの多くを成し遂げるために行政命令を用いざるをえなかったということを考えれば――オバマは6年間も法案を議会に通すことができなかったのである――新しい執行部が前任者の仕事を覆すのはかなり容易いだろう。外交政策においても同様に、トランプは、すぐに結果の出る法律を選択できるだろう。すなわち、これから調印されることになっている交渉を撤回し、影響力を失った体制への支持を引き下げ、懲らしめるべき人々をみつけようとしない、ということである。トランプが示してきたように、彼はホワイト・ハウスに上り詰めるまでずっと、最も抵抗の少ない道を進んで選んできた。どうして彼がいまさら立ち止まるというのか。アメリカはトランプに指導されているふりをするだろうし、その力をおだてるだろう。しかし、難しい決断は避けられるだろうし、敵対勢力は手懐けられるだろう。ひょっとすると国際政治の場で、敵対勢力の一つがアメリカと直接対決してみようと決めるなら、真実の瞬間は訪れるかもしれない。だがそういうことはありえそうにない。アメリカの安全保障体制は依然として無敵の機構のままであるし、それを誰も軽んじないだろう。アメリカの政治制度が基本的な機能を果たすことによって、トランプはそれを解体するふりをするのに必要なだけの覆いを手に入れる。実際に彼がしようとすることは、アメリカの政治制度の緩慢な侵食である。劇的なことは一切起きないだろう。それは、現実の精算がさらにすこしばかり延期されうるということを意味する。確かにこれは、トランプの在職中に本当の意味で劇的なことが起きるよりは、ましなことではあろう。そんなことを誰が望むだろうか。おそらく彼に投票した人々でさえ望まないだろう。

シールのトランプ擁護論の核心は、アメリカはリスクを避ける社会になってきており、生き残るために必要な根本的な変革を恐れている、というものである。崩壊が必要なのである。しかしトランプは崩壊を招く人物ではない。彼は悪意をもって問題を起こす人である。トランプに投票した人々は自分が大きな賭けに出たとは思っていなかった。彼らは依然として自分たちの根本的な安全を保障してくれる制度を叱りつけたかっただけである。これはブレクジットとトランプへの投票の共通点である。EUの離脱を選択することで、イギリス人投票者の多数はあたかも異常なまでに無謀なことをしでかしているかのように見えたかもしれない。しかし実際には、彼らの振る舞いもまた、彼らが基本的に政治制度を信頼していることを反映している。うわべはその制度のことを非常に不愉快に思っているのだとしてもである。というのも、彼らはこの政治制度が依然として自分たちの選択がもたらす帰結から自分たちを守ることができると考えていたからである。時折言われることだが、トランプが彼の支持者にウケるのは、どこかでのさばっている悪人のせいで自分の生活が地獄に変わってしまうことを防いでくれる、権威主義的な父親像をトランプが代表しているからである。しかしこれは正しいはずがない。トランプは子供である。私が今まで生きてきて出会ったなかでもっとも子供じみた政治家である。この場合、その親はアメリカという国家そのものである。国家のおかげで投票者は癇癪を起こし、教室で最もグレたガキに力を託したのである。子どもたちは、大人がいつもそこにいて後始末をしてくれると、確実に知っているからである。

ここに本当のリスクが存在する。こうした振る舞いを続けていれば、必ずや民主主義的な政府の基本制度が傷つけられてしまう。ずば抜けてよくチューニングされた政治的知性がなければ、人民の怒りの矛先を国家のなかでも改革が必要な部分に向けて、こうした改革を可能にする部分は無傷のままにしておく、ということはできない。トランプは――そして実際ブレクジットは――そうしたものではない。彼らはもっとも感度の悪い楽器であり、助けるつもりが、何も成果を挙げられないまま、無差別に土台を揺らしてしまうのである。こうした状況で最もありうる反応は、部屋にいる大人が身を屈めて嵐が通り過ぎるのを待つというものである。そうしている間に、システムの崩壊だけは避けねばという最優先命令が発せられ、政治的な収縮と必要な改革は先送りされる。我々の直面する長期的な脅威に対処するうちに、戦車を路上に駐留させないとか、ATMをいつでも使えるようにするとかいった、理解可能な願望が生まれてくる。偽の崩壊の後には制度の麻痺が続き、その間に本当の危険がいや増してくる。最終的に、このようにして民主主義は終わるのである。