「
アガンベンによる人文科学の方法論」。三章だてで、それぞれ「
パラダイム」、「しるし」、「
歴史学と考古学」が扱われる。
フーコーの議論を発展・展開させた議論だが、単に
フーコーの紹介・解説にとどまるのではなく、彼の方法論の中心概念となるものを思想史上に位置づけなおし、いわば
フーコーの方法論自体にその方法論を適用してみせるというメタな構造になっている。たとえば、第一章では、しばしばその近さが指摘されてきたにも関わらず、
フーコーがクーンの「
パラダイム」という概念を用いずに、
エピステーメーと言ったり、言説体制と言ったりしたということの意味を、
アリストテレスの「
パラダイム」概念にまでさかのぼって考察する。『知の考古学』で目指されていたものは、クーンの
パラダイム概念のようにある特定の時点の認識状態を明らかにすることではなく、
エピステーメーという概念によってある種の言説実践が実定性を持っているということを示すことにある。言説の実定性というのは難しいが、主体の認識ではなく、むしろ主体へのいかなる準拠も含まない言表・形象が生起することへと注意関心が向けられているのだと、とりあえずは言うことができる。
アガンベンは、
フーコーのやっていることが
歴史学的な通時的研究とも、クーンの
共時的な
パラダイム研究とも一致しないもの、むしろ通時的かつ
共時的な言説の様態を明らかにしようとする研究であると指摘する。
フーコーが取り上げた、
パノプティコンや、大いなる収監、告白、自己への配慮などといったものは、個別の歴史的な具体例ではなく、それを取り上げることによって通時的・
共時的な問題系を再構成することができるようになる操作だというのだ。
アガンベンによれば、こうした操作は、メタファーというよりも
アレゴリーであり、「
パラダイムは、ただその固有の単独性を提示することで、新しい全体を理解可能に」し、「所属している文脈から切り離された単独の事例である」にもかかわらず、「
パラダイムそれ自体は、その新しい全体の均一性を構築する」。つまり
パラダイムは、普遍/個別という二項対立に還元されない様態、単独でありながら全体を提示するような様態なのであり、
アガンベンはそれを
プラトン・
アリストテレス以来の論理学が問題にしてきた意味で「
パラダイム」であると述べる。