'13読書日記42冊目 『ドイツ福祉国家思想史』木村周市耦

ドイツ福祉国家思想史

ドイツ福祉国家思想史

505p
福祉国家Wohlfahrtsstaatは、近年の政治思想的、政治理論的な議論の関心の中心のひとつにもなってきた。イデオロギー的に言えば、アメリカのリベラル(とりわけロールズ以降)、大陸ヨーロッパの社会民主主義は、資本主義の揚棄が不可能なことを認識し、そしてその代わりに資本主義の破滅的な帰結を保障するものとして国家の機能を積極的に設定してきた。福祉国家とは、市場経済から分離しつつも、その安定化あるいはその欠陥を補足するために積極的に市場に介入するというような統治形態を意味している。しかし、70年代後半以降、一般に「福祉国家の危機」と呼ばれるような事態――戦後の経済発展の停滞、あるいは終身雇用モデル、男系社会モデルの失効、高齢社会化などに起因する――が起こると、国家の積極的介入が市場の自由な価格メカニズムを歪めているということが声高に主張され、福祉国家への批判が高まりを見せてくる。周知のように、それはネオリベラリズムと呼ばれるイデオロギーに結実していくわけだが、イデオロギーレベルだけではなく、福祉国家社会保障モデルが実質的に存続可能なのかという経済的なレベルでも論争は継続している。
さて、本書は、こうした近年における「福祉国家」の思想を少なくとも直接的に取り扱ったものでは、全くない。むしろ、こうした近年の福祉国家の議論の前提となっている思想的系譜をドイツに求め、それを私的自治と国家干渉、福祉国家法治国家といったマトリクスのなかに埋め込んで理解しようとするものである。あるいは、こう言ってよければ、本書は、最近話題になっている「社会的なもの」がドイツにおいてどのように形成されてきたのか、ドイツにおいて「社会的なもの」が「政治的なもの」とどのように関係を結んできたのかを、明らかにするものである。つまり、例えば『社会的なもののために』の議論の前提となる思想的系譜を、ドイツの側から詳細に把握させてくれるのが本書であると言ってもいい。
社会的なもののために

社会的なもののために

福祉国家とは、ドイツの近世において特徴的な国家形態を指している。社会民主主義的な給付型の国家が、自由市場経済の欠損を保証し、経済的な弱者を救済するために働くために機能するとすれば、近世ドイツの福祉国家はそうした機能や目的付けとは無関係である。絶対主義にあったドイツの領邦国家にとって、国家あるいは統治の最終目的は、国家・国民の幸福の維持・拡大にあった。統治者は国家や国民の幸福のために統治しなければならなかった。しかし、そこで問題となっていたのは、国民が自分の幸福をどう定義し、それをどう獲得するかということではなく、統治者がどのように幸福を定義し、――国民には一切顧慮することなく――国民の幸福をどう獲得するかということだった。したがって、逆説的なことだが、福祉国家の統治は、国民の幸福を獲得するために、国民(自身が考える自ら)の幸福を抑圧することもありえたのだし、しばしば実際に抑圧した。福祉国家の教義は、ライプニッツやヴォルフといったドイツ自然法論者によっても支えられている。ドイツ自然法においては、自然権は例えばロックのような自己所有権といった介入の否定という消極的自由を意味するのではない。人間は神によって、幸福を目指すこと、すなわち自己を完成させることを命じられており、その意味で自然権が規定された。つまり、人間は自然権として幸福を目指す権利を持つのと同時に、――神の命令=自然法として――幸福を目指すことを義務としても持つのである。こうした自然法の議論は、当然、国家の統治機能にも影響を及ぼす。人間は一人では生きらず、完全な幸福には到達できない以上、社会=国家を形成し、社会=国家がその成員の幸福を維持・拡大させなければならない。このようにして絶対主義的国家の統治目的が幸福へと設定されるドイツにあって、政治的な議論の焦点となるのは、当然、そうした統治が国民の自由を侵害することがないようにいかにそれを制限するかという消極的自由をめぐる問題である。裏を返せば、そこには政治的参加の自由の議論は後継に退いていくことになる。実際、一般にドイツ政治史においては、福祉国家から法治国家へという流れが言われるが、法治国家はしばしば立憲主義立憲君主制と同一視される。つまり、絶対主義体制脱却以降のドイツ、19世紀のドイツにおいて問題になるのは、立憲的な制約のもとで法に従った統治がいかに国民の幸福を調達できるのか、ということになっていく。さらに、19世紀においては、後進国ドイツににおいても、「社会問題」が見過ごせないものとして浮上してくる。つまり、ドイツにおいても工業資本主義が遅ればせに進出しつつあり、そこにおいて貧民あるいはPöbelの存在が浮かび上がってくるのである。下からの革命ではなく上からの改革がいつものことであったドイツは、ブルジョア革命を経ることなく社会問題にどう対処するかという行政的な問題に直面せざるを得なくなったのだ。
大雑把に言えば、このような見取り図を描くことができるドイツ政治史、政治思想史を、本書はより詳細に明らかにする。ドイツ自然法フンボルト、カント、ヘーゲルロマン主義、ローベルト・フォン・モール、ローレンツ・フォン・シュタイン、アードルフ・ヴァーグナーといった日本ではあまり馴染みのない名前も含む政治思想家を取り上げ、論争情況を明確にしながら、議論が展開されていく。僕はカントに関してしか評価する能力がないが、カントの叙述についても非常に正確に読み解いていて、カントの法哲学のラディカルさを明らかにしていると思う。興味深いのは、カントのインパクト――それは基本的には、人民主権の主張だが――が、後の社会問題の発見とそれへの対策としての統治という議論設定の中で、立憲主義的な制約、自由主義的私的自由の原則としてしか影響を及ぼさなかったという不幸である。いや、不幸かどうかは分からないが、ともかくカントの共和主義がそれ以降(西南ドイツにおいて立憲主義的議会の開設などはあるものの)ほとんど絶たれてしまい、もっぱら政治的な関心が統治に、つまり行政に向かっていくということは面白い。