'13読書日記51冊目 『ハンナ・アレントと現代思想 アレント論集Ⅱ』川崎修

ハンナ・アレントと現代思想 (アレント論集 II) (アレント論集 2)

ハンナ・アレントと現代思想 (アレント論集 II) (アレント論集 2)

296p
ハンナ・アレントの政治理論 (アレント論集 I) (アレント論集 1)

ハンナ・アレントの政治理論 (アレント論集 I) (アレント論集 1)

卒論を書き終えたあとに本書を含む著者のアレント論集が二冊刊行され、修士でもアレントをやるつもりでいた僕はそれを買っていたのだが、先生から「アレント研究者は飽和してるから別の人をやるほうがいいのじゃないか?」と言われて、そして今カントをやっているので、このタイミングでなぜ本書を読んだのかといえば、それは映画『ハンナ・アーレント』が岩波ホールで公開されていてツイッターのTLにもにわかにアレントに関するツイートが増えていて、アレントに関する何かをもう一度読みたくなった――けれども映画は結局見に行かなかったのだけれど――ということなのだが。論集Ⅰではアレントの著作の内在的な解釈を提示してみせた筆者が、本書で試みるのはアレントのなかに様々に(そして曖昧に)響いている過去の思想家の影響を測定するということである。とりわけやはり非常に興味深いのはハイデガーアレントがどのように考えていたのかという問題で、それが第一章「ハンナ・アレントハイデガーをどう読んだか」、第二章「現代思想のなかのハンナ・アレント――1954年アメリ政治学会報告を中心に」である。アレントハイデガー解釈が全面的に展開されるのは『精神の生活』第二部「意志」のなかである。僕はまだその箇所を読んではいないので何とも言えないが、第一部を読んだ経験から言えば、『精神の生活』自体がここに面白い話はふんだんに含まれているとはいえ、一体全体、彼女は何を伝えたがっているのかが獏として分かりにくいという印象を持つ。その点で、本書のハイデガーアレントに関する第一章・第二章は極めて有益な手引となってくれるように思われる。
重要な問題は、アレントハイデガーにたいして、彼の「意志」概念を中心に、批判と同時に(ハイデガーによっては展開されなかった)可能性をも読み取ろうとしているというところである。ナチズムとの関わりからハイデガーを批判するという方向は、フランス現代思想の方面ではいまだになされているし(西谷修『不死のワンダーランド』に詳しい)、日本でも目にすることも多いけれども、そのようなことを踏まえたときに、アレントハイデガーの意志論への注目は異様である。彼女は確かにハイデガーが「僭主的なもの」を欲する傾向がある哲学者の系譜に属していることを批判してはいる。しかし、アレントハイデガーに注目するのは彼の意志概念の革新である(彼女の注目は『ニーチェ』に集中している)。アレントによれば「ハイデガー以前の何びとも、いかに、意志の本性が思考と対立するものであり、思考に対して破壊的に作用するものであるかということを見抜いていなかった」。アレントハイデガーがこれまでの哲学において隠されてきた意志の破壊性を発見したと考える。ニーチェの「力への意志」という洞察は、意志にとってみれば、無とは「意志しない」ということのなかに意志が消え去ってしまうということ、この無力さを意味する。したがって、意志は「意志しないよりは無を意志する」という破壊的な性格を持たざるをえない。この破壊性は、すべての存在者に向かうだろう。こうした意志の破壊的性格に対して、ハイデガーが対置するのは「存在の呼びかけに従う思考」であるとアレントは言う。しかし、存在に呼びかけられて本来的な存在者のあり方に向かうというテーゼにおいてハイデガーは、「行為」を問題にすることはできない。というよりも、むしろ行為そのものが思考、存在の呼びかけに従う思考のなかに包摂されてしまう。このことがアレントハイデガーの批判の中心である。