'13読書日記52冊目 『地図と領土』ミシェル・ウェルベック

402p
ウェルベックの最新作。『地図と領土』というなかばフーコー的な権力の地政学を想起させるようなタイトル。一人の現代芸術家ジェドをまったくフィクションの世界で練り上げ、彼の友人(になり得たであろう可能性を持つ人物)として作者自らを登場させるという、壮大な物語である。架空の芸術作品の叙述など、退屈極まりないものになりがちだと思うかもしれないが、ウェルベックの力量は、そうした読み物さえグイグイと引っ張っていく面白さと強靭さ、しなやかさを持っている。
彼の小説は『素粒子』でもそうだったが、資本主義と生命――それも徹底的に無機化された有機物としての生――が織りなす現代世界をシニカルな視点から、描き出してみせる――とはいえ、最終的には「末期」と思われた資本主義はしかし20年後にはより力強く柔軟な姿で回帰してみせる様が描写され、資本主義の凱旋のなかで、主人公は孤独に死んでいく、あるいは消え去っていくのだが。タイトルの『地図と領域』は超越的な視点の喪失を端的に言い表していると言ってもいいかもしれない。つまり、地図はある超越的な視座から見下されて制作されたものだが、領域はその視座が超越性を失い、そこに内在して様々なアクターが闘争しあう平面である。地図として見られた大地の空間は、形を変えず不変でありえるが、その超越的視点を欠いた空間は単なる領域として、あるいはテリトリーとして、アクターの闘争次第――ここでそのアクターを運動させているのは単なる資本主義的な投機性であると言っても良い――で絶え間なく変転していく無常の世界だ。資本の論理が芸術までをも覆い尽くしたあと、もはや〈自然〉に帰ることもできない人間は、その人為的で功利的な世界に安住することがかなわないのだとすると、孤独の中で死ぬという意味で、限りなく無機的に近い有機物として生き死ぬ以外にないのかもしれない。
本書の語りも、様々な意味で面白い。例えば、本書の語りの視点は2040年頃に設定されており、現代、つまり2000〜2010年くらいを生きるジェドとウェルベックが回顧的に語られるというものだ。視点人物はジェドなのだが、節を代えて今度はジェドの作品と芸術活動を後世の、つまり2040年代の芸術史家、文学史家がどう見たのかという解説が挟まれる。思想史をやる人間として興味深いのは、こうしたフィクションの組み立てが、ジェドその人の人物の奥行きを、思想史にはありえないようなやり方でやってのけてみせることである。思想史は、究極的には対象とする人物の内面の声を書き取ることはできない。残されたテクストから、彼の思考を解釈-再現するだけにとどまる。しかし、ウェルベックは視点人物である主人公の叙述に加えて、後世からの解釈を組み込むことで、主人公の内面と後世からの解釈のズレ――否が応でもずれざるをえない言説のはらむ郵便性――を極めて有効な仕方で浮かび上がらせる。こうしたズレを思想史の分野でやろうとしているのは、ポーコック、ではないか、とひとまずいえる。