'13読書日記53冊目 『対岸の彼女』角田光代

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

334p
角田光代という現代作家は、まさに社会学的な意味における「生きづらさ」を描くことに傑出した作家だといえる。小学生の頃から社会人、主婦になってもつきまとう、「仲間はずれ」にされないかどうかという不安、「空気」を読んで、自分がハブられないように立ち振る舞う暗黙の規範。こうしたものから抜け出すことへの憧れ、自分で何かを選択することへの夢が、最初は失望に突き落とされ、そののちに人間的な出会いを通じて、回復がもたらされる。近代小説の一つの極地だと言っても言い過ぎたことにはならないだろう。近代小説の極地といったのは、それがあくまでポストモダン的ではないからである。ウェルベックが優れてポストモダン的であるとすれば――比べることはなかば無理矢理過ぎるのだが――角田は近代の時代を描写し、近代の中で生きるすべを与える。近代という時代が人々に「ここではないどこか」、まったき本来性への夢を見させ、それがまさに夢にすぎないことを思い知らせるという点で、夢からの疎外によって特徴付けられるとすれば、ポストモダンはそうした「ここではないどこか」、あるいは本来性などというものが不可能になったと自覚する時代である。角田の世界は、そうした居直り的なニヒリズムとは無縁である。あるいはむしろ、彼女の小説世界は、時代は自らを近代だと自称するにもかかわらず、そこに全近代的なものが幅を利かせる純日本的な文脈から成り立っており、いかにそれを「近代」へと解放するかという問題関心と言ってもいいかもしれない。敷衍すれば、主人公は「本来性」、「ここではないどこか」から疎外されていると感じており、疎外から回復するために様々な冒険的企てを行う。しかし、その夢はあくまで夢であるということが知らされて、再び疎外の境地に立たされる。しかし、人間的な出会いを通じて、主人公らは自分らが夢から疎外されていたのではなく、夢へと疎外していたこと(見田宗介)を思い知り、そうした夢を粉砕するすべを獲得する。「すべ」と言ったが、あるいはむしろキルケゴール的な冒険的跳躍がそこにはあるのであり、より具体的に言えば、それは「信」、あるいはパスカル的賭けである。とりわけ本書は、この側面が際立っている。つまり、夢への疎外を破壊するために、夢を見させていた近代的虚構(あるいは純日本的な前近代と近代の混交)から跳躍し、目の前にいる人間を信じ、自分の思うとおりに生きようとする跳躍へと賭けるのである。
こうしたことをうだうだと書かせるのは、本書が優れた水準にある小説世界を構築しているからに他ならない。思うに、小説が成功しているかどうかの一つの基準は、例えばアマゾンの糞みたいなレビューがけなすように「こんな女はどこにもいない」だのというリアリズムではありえない。むしろ、虚構内の論理が一貫しているかどうか、虚構内の思考が存在するかどうかである。本書は、平易な文体で書かれているにもかかわらずそれゆえに単純な問い(人は老いて何を学ぶのか? 私は何を選び得たのか?)――しかし単純な問こそ根源的であるのだ――にいつまでも付きまとわれて苛まれ続け、それに答えを出そうと思考している。