'14読書日記16 『普遍論争』山内志朗

普遍論争 近代の源流としての

普遍論争 近代の源流としての

久しぶりにくっそ難しい本を読んだ。中世で行われていた「普遍論争」がかくも恐ろしいくらい複雑なもので、しかもそれを理解するためには近代以降の思想史的な枠組み――実在論唯名論――がむしろ邪魔になるという。ほぼ一つも分からなかったが、筆者の書き方が丁寧でなんとなくついていける気がする、が、ここになにか書こうとするような理解は得られていない…。「代表」の議論は、社会思想史的な含意があるのではないかという予感もあるのだが、分からない。難しい。
筆者の研究を駆動させているのは、実在論唯名論という図式ではなく、<見えるもの>と<見えざるもの>という図式、しかも両者の共約不可能性こそが中世哲学の問題圏の中核にあったのではないかということである。しかし、

その場合、重要なのは、共約不可能性の存在を主張することではありません。…〔問題は〕共約不可能性が見いだされる場合の紐帯がどのようにして可能なのかということなのです。もし共通の尺度がはじめから無かったら、もし途中から壊れてしまったらどうなるのか、ということです。つまり、最も近くにあるべきものが最も遠いものである場合、秩序は崩壊してしまうのです。そして、遠近の尺度も失われてしまう。不変の尺度はいったいどこにあるのでしょうか。…永遠性、恒常性、必然性がスタティックなものとしてあるのではなく、流動的、力動的なものとして語られることが哲学史のなかでよくあります。スタティックなものが理想としては不十分なものだからではなく、そのようなもの――理念でもイデアでもかまいません――への憧憬を初めから妨げているものがあるようにも思われるのです。テロスが永遠にして必然的なものであるのは、テロスが備えるべき性質ですが、テロスへの道程に障害が存在し、テロスへの途上にあることをテロスにするしかないことがあるように思われます。…そこに登場する障害を、私は「共約不可能性」と呼びたいのです。