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夕方、渋谷アップリンクで伊藤めぐみ監督『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件 そして…』を同期の友人2人と鑑賞。2004年のイラクで起きた日本人人質事件の被害者2人に取材した映画で、その後の10年間を彼らがどう過ごしてきたのかを描いている。
もう10年も前のことで僕の記憶も薄らいでいるが、あの時彼らに浴びせられていた「自己責任」のバッシングの強烈に不快な印象だけは覚えていた。一人の方はバッシング以来数年間引きこもりになったが、立ち直ってNGOを立ち上げ、若者の引きこもり支援をしている。もう一人の方、高遠さんは、今もイラクへ行き(それも自費で)現地での医療支援を行っている。映画は実際にイラクへ行って高遠さんの活動にも取材している。おそらく米軍が使ったであろう劣化ウラン弾の影響で、奇形児が生まれ、あるいは何度も流産する人がいる。それらの現実を、目を覆いたくなる現実を、映画は冷静に映し出す。
あの時、人質になった彼らに日本人が浴びせかけた「自己責任で行ったのに国が救援に向かうなど、ありえない」というような批判の気持ち悪さ、えげつなさを、映画を見ながらまざまざと感じた。おそらく、人質となった彼らに向けてバッシングの(「死ね」などという意味不明な暴言を含む)手紙やファックスを送りつけた何千人者人ら、あるいはネット上でそれに同調した人ら、そして「自己責任」を口にした小池百合子福田康夫らの言説がおぞましいのは、その内容上のものだけではなく、認識上のものである。彼らは敢えてイラクに行った人――それも物見遊山ではなく、「自分探し」でもなく、ボランティアとして行った人――にこそ、人質に取られた責任があるというが、そもそも普通に考えるなら、人質を取るという行為事態が批判されてしかるべきものである。しかしそうならなかったということは、日本人が日本人に浴びせかけたバッシングの暗黙の前提となっていたのは、「イスラム原理主義」は悪しきもの、しかもその態度を絶対的に変更できないくらいの悪しきものだという認識だろう。もちろんこうした――ブッシュに追従してとち狂ったアメリカ中心主義的――認識こそが、「文明の衝突」を煽る構造的な原因となっているということは、彼らには認識されていない。しかも、僕は忘れてしまっていたのだが、当時高遠さんらを人質にとったグループが日本政府に対して出した要求は、自衛隊の撤退だった。自分のことを「ごくまっとう」だと考える人らは、自衛隊イラクに派遣されて「非戦闘地域」で活動をすることは「戦争に加担することではない」、むしろ人道的な活動である、と盛んに言うのだろう。しかし、イラクにいる人らにとって、迷彩服を着た日本の自衛官らは、アメリカ軍と同様に攻撃してくる可能性のある潜在的な危険性以外の何物にも見えなかったし、そこで実質的にやっていることがアメリカ軍への支援活動であるのだとすれば、いったいイラクの人らはどのように考えるか。日本政府は結局、人質解放のために自衛隊を撤退することはしなかった。人質にとったグループは、結局、高遠さんらは日本政府などの組織には属していない人らであることを確認したため、彼女らを解放するに至ったが、そのとき出された声明文は、まさに悲しむべきほどの真実を告げている。曰く、我々イラク人は日本は戦争をしない平和な国だと思っていたが、アメリカに従属して戦争に加担している。日本は戦争をしにイラクに来たのではない、イラクの市民を救援しに来たと言っているようだが、人質に取られた自国の人らを助けようとしない国が他人の国の人らを救うことなど、到底考えられない。
いろいろなことを考えすぎていて、ぼおっとした頭のまま、渋谷で韓国料理を食べて解散。
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昼過ぎ、修士を出て働き出して一年になるaが休みをとって駒場に。指導教官と歓談。のあと昨日の2人も合流して渋谷でよもやま話。あ、それから、『相関社会科学』という僕の専攻が出している査読誌に論文が載りました。初論文掲載。やっほー。