'14読書日記17冊目 『絶望の精神史』金子光晴

絶望の精神史 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

絶望の精神史 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

「体験した「明治百年」の悲惨と残酷」という副題が付された詩人による精神史の試みのそもそもの始まりは、副題にもあるように、明治開闢から100年が経った1968年の「明治百年」を記念する年に先駆けて感じた、日本の戦後のあまりの忘却の著しさに詩人が絶望したことによる。あるいはそれは戦前から日本を生きてきた知識人(と本人は呼ばれたくないだろうが、やはりある種の知識人には違いない)の一種の高邁な絶望と呼ばれてもいいかもしれないが、しかし、彼が明治百年を前にした日本人の浮かれようを見た時に感じたことには、今の我々にも何か鬼気迫るものがある。戦後、その言葉を使わないまでも、グローバル化が進み、世界が均質化してくると同時に、すべてが個人化された人間は、「何か信仰するもの、命令するものを探すことによって、その孤立の苦しみから逃避しようとする」と看破した金子は、次のように述べる。

世界的なこの傾向は、やがて、若くしてゆきくれた、日本の十代、二十代をとらえるだろう。そのとき、戦争の苦しみも、戦後の悩みも知らない、また、一度も絶望をした覚えのない彼らが、この狭い日本で、はたして何を見つけだすだろうか。それが、明治や、大正や、戦前の日本人が選んだものと、同じ血の誘引ではないと、だれが断定できよう。

そこで、彼は日本が明治から挑み続けてきた西洋化あるいは近代化と、それに浮かれたり流されたりと惑わされたりして人生に絶望していった人間らの生き死にを、描こうと試みるのである。明治から大正、戦中、戦後と自分の体験談を、感傷に流されることなく淡々と記したこの本には、我々がもうすでに忘れてしまったどころか、知る由もない、日本のかつてが克明に現れている。江戸時代の封建制的身分秩序からの解放とその挫折、西洋化とそれへのさまざまな反応、文学と恋愛と共産主義、洋行と南洋への旅、戦時中の中国への取材、戦後の焼け野原での生き様。その折々に、金子が経験した、周囲の人間の絶望が、次々に書き留められていく。

絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。

と述べる詩人の、徹底して絶望から顔を背けない姿勢。各章の扉には、自分の詩から引用がある。最初の章「絶望の風土・日本」の扉には、詩集『落下傘』から次の詩が引かれていた。

ゆらりゆらりとおちてゆきながら
目をつぶり、
双つの足うらをすりあはせて、わたしは祈る。
「神さま。
どうぞ。まちがひなく、ふるさとの楽土につきますやうに。
風のまにまに、海上にふきながされてゆきませんやうに。
足のしたが、刹那にかききえる夢であつたりしませんやうに。
万一、地球の引力にそつぽむかれて、落ちても、落ちても、着くところが
ないやうな、悲しいことになりませんやうに。」