'14読書日記22冊目 『つながりの作法』綾屋紗月・熊谷晋一郎

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

ここ数年の間に読んだなかで一番心に残ったほんの一冊に、熊谷晋一郎『リハビリの夜』がある。筆者は小児マヒ患者であり、これまだ過酷なリハビリを体験してきた。しかし、筆者が獲得したのはリハビリによる「健常」ではなく、むしろその規律訓育権力に敗北し続けた経験であり、もはや官能的でさえありうるような敗北の極地だった。リハビリの夜――一切の規律訓育に敗北し、敗北慣れしてしまった自分にエロスさえ見出す夜――そこから抜けだして、別の身体の在り方、敗北の官能へと向かうのではない在り方を模索しようとすること、筆者が試みたのはそれだった。小児マヒの身体は、自己の身体と環境が密接に結びつきすぎる状況であるという。『リハビリの夜』は固着化した身体と環境を解きほぐし、結びつきながらも解けあう身体を目指す理論的書物だった。
本書『つながりの作法』では、そうしたつながりすぎる身体とは真逆の身体、つながらなさすぎる身体を持つアスペルガー症候群の患者・綾屋紗月が熊谷とともに、むすびつきながらもほどけあう身体を生み出していくにはどうすればいいのかを、自らの体験を踏まえて考察している。鍵となるのは、当事者研究である。この言葉が(本書で)意味するのは、「当事者を研究する」ということではなく、「当事者(たち)が(自らを)研究する」ということである。どういうことか。イメージ的に語れば、何かを研究するということは、その対象にべったりとくっつきすぎている状態から身を離し、俯瞰的にその対象に接近し、理解するということである。当事者研究が焦点を当てるのは、この研究プロセスにつきものの、つながりつつ適度な距離を持って対象に接近するという距離感である。当事者が、自らの身体・症状を「研究」し、対象化し、理解するプロセスを経ることで、身体を、そして対他的に存在する環境を、別なものへと変えていくのだ。
綾屋の淡々と記述された心理情景を読んでいると、ぐううっと身体が締め付けられるような、これは私でもありえた、というような感覚に陥って、読み終わった後はしばし呆然とした。