前々から
プラグマティズムについてはいいイメージを持ってこなかった(デューイとローティを読んだ)のだが、ガダマーを読むゼミのメンバーで、ローティについて読書会をしようという一見奇異な運びゆきとなったため、最近出たこの新書を読んでみた。
プラグマティズムを源流・少し前・これからの、という時期で区切って論じている本書を読んで、一言で言えば、
プラグマティズム観が大きく変わった。
プラグマティズムにいいイメージを持ってこなかったというのは、その根本的な発想である「有用さ」に起因するところが大きかった。絶対的な真理などはない、真理論は必要がない、有用な信念だけで十分である、と言ったって、その有用さはどこからやってくるのか、どのように判断されるのか、ということが非常に疑わしかったのである。take it easy的な、いかにも
アメリカ的な発想だとバカにしていたのである、正直。最近は日本でも
プラグマティズムが流行しているが、一体あの馬鹿げた思想をどこの誰がありがたがっているのかと訝しんでもいた。ところが、本書が伝える
プラグマティズムの源流、とりわけパース、ジェイムズについて知れば知るほど、これはなるほど非常に面白い発想だと分かってくる。人間は生活世界のなかで信念の網の目をもって暮らしている。新しい知見や経験に直面した場合、その信念の網の目のつなぎは動揺せざるをえなくなる。そこで今まで持っていた信念の網の目をどのように編み直すのか、信念を変更するのか、ということが問題になる。うまく整合的に編み直せるような信念であれば、とりあえずは真理だと呼ぼう、このように言う訳である。ローティはあまりにも
相対主義的にかつ
エスノセントリックに物事を主張してしまったため、科学と文化の違いなども破壊してしまおうとする。こうしたところにも怪しさが立ち込めるわけだが、本書が伝える
プラグマティズムのこれからの人々は、ローティからの揺り戻しでパースをもっとちゃんと読み込み、非常に納得的な(その分刺激的ではないかもしれないが)議論を展開しているようだ。とりわけ、本書では難しい箇所だが、パースの数学の真理についての二通りの解釈は極めて面白い。哲学の面白さを
プラグマティズムから感じられたというのが、自分自身驚きで、パース、ジェイムズをもっと知りたいと思わされた。
「少し前の」
プラグマティズムの箇所で取り上げられるブランダムも最近翻訳が出た様子。