'16読書日記6冊目 『社会科学と高貴ならざる未開人』ロンルド・ミーク

社会科学と高貴ならざる未開人―18世紀ヨーロッパにおける四段階理論の出現

社会科学と高貴ならざる未開人―18世紀ヨーロッパにおける四段階理論の出現

極めて面白い本であるのに、きっと何の本かわからず――本屋さんはどこの書棚に配架するだろうか――売れていない感じがぷんぷんする…。副題は「18世紀ヨーロッパにおける四段階理論の出現」である。この副題でもやはり分からないだろう…。
18世紀後半の社会思想を汎ヨーロッパ的に彩っていたのは、極めて特徴的な発展段階論であった。アダム・スミスとチュルゴーによって考案されたそれは、人びとの生活様式にもとづいて、社会の発展を、狩猟採集・遊牧・農業・商業と四段階に区分する。進歩史観はいわゆる啓蒙の歴史哲学に特徴的なものだが、この生活様式に基礎づけられた社会の進歩への眼差しは、スミスとチュルゴーを通じて、政治経済学あるいは一般に社会科学の成立をもたらすことになる。この思想の延長線上に、コントの人類史やマルクス史的唯物論が位置づけられるのは言うまでもない。
本書『社会科学と高貴ならざる未開人』が探求するのは、この社会発展の四段階理論の成立と変転の思想史である。「高貴ならざる未開人」というのは、四段階理論の出自の一つに関わっている。本書によれば、社会発展を生活様式に基づいて観察するという眼差しが生まれたのは、起源としてはアメリカの発見に由来するものが大きい。新大陸アメリカで生きる原住民たちは、自然法論において理論化されていた自然人そのものとして考えられた。当時、人類史を考えるときに、絶対的に外せないフレームワークとなっていたのは、もちろん聖書である。聖書の記述には、このような原住民は出てこない。聖書の記述にあるような創成当初の人間が、アメリカ原住民なのか。アメリカ原住民は「われわれ」の祖先と同根なのか。「われわれ」の祖先はあのような野蛮人と同じだったのか。このような問題が生じてくるのである。どのようにして「高貴ならざる未開人」を人類史のなかに、聖書と整合的に位置づけるのか。初発の問題は、こうしたことであった。本書の第二章が主張するように、16世紀・17世紀を通じた論争の末、ヨーロッパの知識人が受容せざるを得なくなったのは「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という仮説である。本書は、こうした問題がどのように歴史的に扱われてきたのかを論じるという点で、初期近代の旅行記や歴史書の思想史、歴史叙述の歴史(history of historiography)であると言える。しかも、その歴史の分析は、非常に精緻である。例えば、以下の叙述を見てみよう。

さて、これから我々が辿ろうとしなければならないのは、アメリカ人に関するあれこれの問題に関する同時代の議論が、「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という萌芽的な考えにいかにして漸次的に向かっていったか、である。ここで記憶しておかなければならない主要点の一つは、私の考えでは、文明化されていないアメリカ人社会と文明化されているヨーロッパ社会が共存しているという発見だけでは、ヨーロッパ型の社会が通常はアメリカ型の社会から始まり発展したという見解を生み出すには、不十分であったことである。〔…〕
「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という仮説が受容される何らかの実質的な方策を確保したいと望む前に、明らかに必要であったことは〔…〕当時のアメリカ社会の基本的特徴が、そこから当時のヨーロッパが進化したまさに最初のタイプの特徴に本質的に類似している、というある種の演繹的、あるいは「歴史的な」論証であった。そして、アメリカ人に関する文献は、それ自体結果として、まさしくこの種の「歴史的」論証を導くものであり、むしろ包含してさえいた。

文明化されていないアメリカと文明化されたヨーロッパの同時代的共存を、ある種の歴史的発展のモティーフとして読むためには、つまり「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という仮説が受容されるためには、初期近代のヨーロッパのエピステーメーの限界を規定していた聖書の記述とどう折り合いをつけるのかということだけでなく、ヨーロッパの始原が現在のアメリカと何らかの点で類似している、という発見が必要だったのである。その類似を構成するものとして次第に挙げられ、スミスとチュルゴーに結実する観点こそ、生活様式への着目にほかならない。
四段階理論を可能にした思想の潮流は、本書によれば、所有の歴史的起源に関する議論、摂理的歴史理論、古代近代論争である。こうした論争のフレームワークのなかで、アメリカの原住民の存在がどのように解釈されてきたのか、これを追っていくのである。そうしたなかで生成されてくる社会科学の基本的な視座は、同様の原因は常に同様の結果をもたらすということ、そうした因果連関を可能にする者のなかで最も根本的なものこそ――モンテスキューが雑多に上げた気候や風土ではなく――生活様式だ、というわけである。「始まりにおいて全世界はアメリカであった」という主張は、もちろん古代近代論争の視点では、ヨーロッパ近代は、「高貴ならざる未開人」よりも優れているという解釈と同伴である。しかし他方で、ルソーのようにこれに極めて批判的な態度をとった人物も、本書では十分に論じられている。