知識人/大衆?

自分のことを知識人とみなして、自分よりも劣った存在として大衆を位置づけることは、まだまだ根強く残る悪弊だ。ついこの間まで僕はそういったナルシシズムに満ちた醜い戦略に無自覚だったし、今でもなんだか「知識人」ぶるようなところがある。
この間、柄谷行人を読んでいて、やっぱりマルクス(とともに柄谷)の偉大さに気付かされた。大衆を批判し、知識人ぶっていても何も変わらないのだ。

しかし、経済的なものを現実として、ネーションのみを想像の共同体とすることはできない。また、そのような啓蒙主義的批判の効果は一部の知識人にしか及ばない。[…]マルクスは宗教を啓蒙的に批判した知識人たちに対して、宗教を必要とする「現実」があること、それを解消しないかぎり、宗教を解消することはできないと述べた。同様に、知識人がどう軽蔑しようと、ネーションもそれを必要とする「現実」があるのだといわねばならない。
(『トランスクリティーク』p416)

何気ない文章ではあるし、マルクスフォイエルバッハ批判をちゃんと学んだ人にとっては当たり前のことかもしれない。だが、僕は、このスタンスを見習わないといけないと、再確認した。