プラシーボ的政権交代

「街にあふれるプラシーボ効果
http://slashdot.jp/idle/article.pl?sid=10/11/11/0035228


この記事によれば、プラシーボ効果は街のいたるところにあふれているらしい。それは、薬ばかりではなく、エレベーターや会社の設備、そして信号にまで援用されているのだという。
プラシーボ(placebo:偽薬)効果とは、、医学的な成分を配合してはいないが、外見上は区別が付かない薬剤を飲んで、何らかの改善が見られるような効果のことだ。あるいはもっと広く、医学的効果が得られたと信じられるような効果だと言ってもいい。
だが、この記事で言われる「プラシーボ効果」という言葉は、なにも医学的な効果に限定して使われているわけではない。
例えば、記事によれば、1990 年代初めに設置されたエレベーターでは、「閉」ボタンが機能していることはほとんどない、と指摘している。また、会社の部屋に設置された空調の温度調節もダミーであることが多い。さらに、ニューヨークにある、歩行者用信号機の「押しボタン」も、そのほとんどが機能していないのだという。(あるいは、かつて、ポケモンが流行ったときに、ポケモンモンスターボールに捕獲するときに、Aボタンを連打した微笑ましい記憶を挙げてもいい。)
これらの「プラシーボ効果」は医学的なものではなく、むしろ、目の前にあるシステムを自ら主体的に制御できたかのような錯覚を与えるものだ。
(これらの偽物の)エレベーターの「閉」ボタンや信号機の押しボタンなどは、押しても押さなくても、その結果については変わりがない。もっと言えば、これらのボタンが付いていようが付いていまいが、エレベーターのドアは同じ時間で閉まるし、信号も同じ時間で青になる(し、同じ確率でピカチュウが捕獲される)。

☆☆
だが、どうしてプラシーボ的装置が、設置されるようになったのだろうか。あるいは、人は目の前にあるボタンを、有効なものだとして押してしまうのだろうか。
その答えは、ごく単純なものである。人々は、自分が主体的に選択し、環境に対して何らかの影響を与えることを求めているのだ。おそらく、多くの人は、受動的にものごとを決定されることよりも、能動的にものごとを決定することに心理的満足感を得るのだろう。
だが、こうしたプラシーボ的装置の数々は、単に皮肉である。というのも、いくら人が主体的に選択し、ものごとに能動的に影響を与えることを求めて、(プラシーボ的装置だと気づかずに)ボタンを(場合によっては激しく何度も)押すことがあったとしても、その結果は、ボタンを押さなかった時と比べて、何ら変わるものではないからだ。
ここで、注意しておきたいのは、こうした状況が皮肉だというのは、結果は同じであり、何らの変化は無いというのに、人が主体的にものごとを決定したがる心理的選好をもっている、ということではない。むしろ、皮肉なのは、自ら何らかの結果を望み、それに向けて選択を行ったにもかかわらずその結果が自分の望みえたものではない時にさえ、人は満足感を覚えるということである。言い換えれば、プラシーボ的皮肉というのは、その選択の結果よりも、むしろ、選択を為したという事実において、人がすっかり満足してしまうことだ。

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こうしたプラシーボ的皮肉が、単にエレベーターや信号機のボタンにおいてのみ見られるのであれば、別段問題はない。しかし、プラシーボ的皮肉(とその冷笑的帰結)は、ポストモダン的・ポスト冷戦的な代表制-民主主義においても、当てはまってしまうのだ。
先進国(かつての西側諸国)において、二大政党制を取る国では、政権交代が可能である。総選挙において、リベラルな政党を選ぶのか、保守の政党を選ぶのかという選択は、まさに国民にゆだねられている。政権交代という重大な政治的決定をなすのは、国民である。国民は、自らの利害を満足してくれる政治を求めて、時に政権交代という選択を為す。政治を国民自らが決定するということ、これこそが、民主主義の基本でなくて、なんであろうか。
しかし、ポスト冷戦以後の二大政党制において、政権交代は、端的に言って、プラシーボ的である。どういうことか。
大衆的な民主主義において、立候補者は票集めのために、国民の人気を得なければならない。そのためには、国民に負荷を与えるようなマニフェストはなるべく出さず、国民に対して媚を売らなくてはいけない。その結果、どちらの政党も似たりよったりのマニフェストになってしまうのだ。そして、最終的に、政権交代が起こったとしても、交代する前とは何ら変わりがなかったということになる。
こういったプラシーボ的皮肉を、まさに、私たちは日本において経験した。人々は、政権交代を求め、「主体的に」民主党を選択した。自民党による政治ではダメだと思って、政治が変化することを願って、政権交代を為した。しかし、まさに皮肉なことに、蓋を開けてみれば、何も変わることはなかったのである。私たちは、相も変わらず「政治には何も期待できない」とつぶやくしかない。

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こうしたプラシーボ的皮肉は、そもそも代表制というシステムに内在的なものである。代表制とは、市民を代表される者と代表する者に分けるシステムのことだ。それは、一方で、全ての市民を「投票」において政治へと参加させるが、他方で、代表される人らを政治から遠ざけておく機能も果たす。つまり、代表される市民(有権者)は、投票行動以外では政治にはかかわらず、代表する市民(政治家)だけが政治にかかわるのだ。
ここにおいて、プラシーボ効果が発生する可能性が生まれる。すなわち、有権者は、自分の利害を満たしてくれるような政治を求めて投票するのだが、代表制においては、市民には投票行動しか与えられておらず、それ以後の、投票の帰結としての政治には関わることができないのだ。それゆえ、市民は、せいぜい、自らの投票という事実においてのみ主体性が与えられることになり、市民は、自らの投票<にもかかわらず>、政治を決定することはできない。確かに、冷戦期であれば、体制ががらっと変わることがありえたかもしれない。しかし、ポスト冷戦期において、代表制に基づく政治に根本的な変化は訪れない。政治は変わらない。マスメディアと結託したポピュリズム的状況下においては、なおさらである。
繰り返せば、プラシーボ的皮肉が問題なのは、その選択の結果よりも、その選択自体に満足してしまうということにある。2009年の政権交代は、まさにプラシーボ的皮肉にほかならない。人は民主党政権に期待して、政権交代を成し遂げた。政権交代こそが重要だと考えられた。しかし、政権が「交代」するだけならば、単なるプラシーボにすぎない。より皮肉なことには、実際には、マニフェストを見れば自民党民主党は大差はなかったのだから、人々はあえてこぞってプラシーボ効果を欲したというほかない。

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では、プラシーボ的皮肉から脱するにはどうすればいいのか。単純に言って、二つの方策が素描できるかもしれない。一つは、消極的なものだ。人々は、単に投票行動に満足するのではなく、常日頃から、自らが投票した(あるいは投票しようとしている)政党が、ちゃんと政治を行っているのか、チェックを怠らないでいなければならない、というものだ。しかし、このことははなはだ希望薄に見える。というか、これは方策というよりむしろ、市民への提言にほかならない。このようなことならば、マス・メディアが(自分のことは棚上げして)うるさく説教を垂れ流しているではないか。二つ目は、積極的でラディカルなものである。見たように、プラシーボ的満足を市民に与えるそもそもの原因は、代表性にある。それゆえ、代表制を破棄するか、さもなければ、代表制を保管するような制度を考え出すべきだろう。直接民主主義が不可能なのだとしたら、例えば、deliberation dayやタウン・ミーティングはそうした制度につながるかもしれない。
こうした二つの方策が考えられるが、とはいえ、この二つは別々のものではないことは明らかだろう。前者が可能であれば、後者もまた可能であろうし、後者が実現されれば、前者が実現する可能性がある。
プラシーボではなく、本当の対処treatmentが、腫瘍をかかえた政治に求められてはいないか。