原発について

 原発について、あるいは震災後の〈リスク〉社会について、twitterやブログでは書かないできました。色々な人が様々なことを言っているし、僕は反原発という立場が当然のように思われてきたので、わざわざ書くべきことではない、書いて面白いことではないと思っていたのです。ところが最近、twitterである人がデモと反/脱原発について書いたツイートを見て、色々考えさせられました。その人とはSNSのメッセージを通じて今もやりとりをさせてもらっています。現時点ではまだそんなに固まっていないのですが、ちょっと自分の立場を書いてみようと思います。
 僕の立場を最初に明らかにしておけば、原発反対という立場です。ところで(原発反対の理由については後に述べますが)、この三ヶ月に驚かされたことがあります。それは反/脱原発のデモが起き、しかもこれまでの政治的・経済的なデモの動員数とは比べものにならないほど、多くの人間がデモに参加したということです。こんなことが、70年代の学生運動――政治の季節――以来日本にあったでしょうか。そこにまずは純粋な驚きを感じるのです。しかも、このデモにおいては、(共産党社民党のような)指導的なグループはおらず、いわば群雄割拠状態であり、デモ参加者によれば、様々な立場の人(原発推進派の人さえいたと言います)が自分の主張をしていたのです。ここにある種のコミューンの再来を見るのは、あまりにCOMMUNISTでしょうか?
 ところで、ハンナ・アレントは、actionとlaborを区分しました。彼女は労働運動のようなデモを肯定的に捉えてはいませんでした。アレントは、actionが経済的な動機(あるいは自らの生命に関わること)からなされてはならないと考えていました。それゆえ労働運動が労働者階級自らの経済的な利益獲得を目指す限り、すなわち労働者の生命自体に関わる運動である限り、それは政治的なactionとは認められないものなのです。ですが、アレントは、労働運動が近代初期において持った政治的な意味(それがactionであった事実)にも目を向けています。初期の労働運動は、共産党の指導下にありながらも、自らの階級利益を要求する以上に社会的な不正(正義)への告発を動機にしていたのです(市民権・参政権言論の自由などを要求しました)。労働運動もそれがたとえ公式見解として労働者階級自身の利益獲得を目標にしていたとしても、運動の中で参加者がそのような社会的不正義への告発を行った場合がある、その場合にのみデモはactionであった、というのです。反原発デモの参加者の動機は、自らの原発被害という生命にかかわる事柄でしょう。その意味では、反原発デモをactionと言うことは出来ないかもしれません。しかし、原発問題は当事者だけの問題ではなく、まさに社会のすべての人に関わる正義の問題でもあります。アレントがそれだけではactionとはみなせない労働運動の中にactionへ至る契機を見出したように、僕らは今回の反/脱原発デモのなかに、確かに正義への訴えないしは〈自由〉に空間を見出しうるのではないかと思うのです。

 僕はここまで原発停止を当然のように扱ってきました。もちろん、原発が停止されるべきかどうかは正義の問題であり、様々な角度から議論されるべきでしょう。大澤真幸は二段構えの議論を展開し、反原発が正当であることを示します。第一に、特殊なケース、つまり今の日本の原発事故の問題について、それは偽ソフィー問題だということ(a)、第二に、普遍的なケース、つまり原発を正義の観点から考えると原発は正義とは相反するということ(b)です。
 (a)について言えば、偽ソフィー問題というのは、映画「ソフィーの選択」にあやかっています。映画はナチスドイツを舞台にしています。双子の母親であるユダヤ人ソフィーは、ユダヤ人迫害の嵐の中で、ゲシュタポからある提案をされます。それは、ソフィーを子供と共に見逃してやろう、しかし、子どもは一人しか連れていけないというものです。ソフィーの選択は、まさに解決不可能で困難なものです。ところが、大澤によれば、原発即時停止するかいなかは、ソフィー問題ではありえない。いわば、家に強盗が侵入してきて、お前の子どもを殺すか、お前のクーラーを奪うか選択せよと迫られているようなもの――偽ソフィー問題だというわけです。ここでクーラーを選択する親はまるで馬鹿です。どう考えても、子どもが選択されなければなりません。ところで、現時点で日本で原発を続けることは、現在原発事故であれだけの被害者が出ているという状況や汚染被害が未来にまで持続するということを考えると、原発を即時停止して当然なはずです。しかし、震災以後の世論を見てみても、原発推進派と反対派は拮抗しています。例えば、推進派の人は原発を止めると経済的に停滞するだろう、つまり現在の人々が困るだろう、だから維持されなければならない、と議論します。これは偽ソフィー問題において、クーラーを選択することです。クーラーがないと夏場暑くて大変だしなあというわけです。しかし、偽ソフィー問題で子どもを選ばずクーラーを取るなんていうことはあからさまに馬鹿げています。では、どうして推進派の人はクーラーを犠牲にして「子ども」の命を選択することが出来ないのか。それは、原発において「子ども」が未来の他者に対応するからです。現時点で「子ども」は存在していないのです。それゆえ、未来の他者としての「子ども」の存在は見えていないのです。だから人々は間違ってクーラー=原発維持を選択してしまうのです。
 第二に、(b)について、原発が不正義であるのは、原発の受益者(現代世代)と被害者(未来世代)の間に埋めることの出来ないギャップが存在するからです。例えば年金など福祉政策が正義に適うかの試金石は、現代に生きている人々の間の公正になります。税率と再配分を最適にミックスすれば、(理論上)公正は実現可能でそれは正義として成り立ち得るでしょう。しかし、原発に関しては、現代に生きている人の間での公正だけではなく、未来の他者、場合によっては一万年後の未来の他者との間で公正が成り立ち得るかを考えなければならなくなります。ところで厄介なことに、放射能汚染が浄化されるのには、あるいは使用済み核燃料(核廃棄物)を適切に処理するのには、100年や200年ではきかない長い年月を要するのです。このような場合に、未来の他者との公正が成り立つでしょうか。現代に生きる人々は原発の利益を享受することができるかもしれませんが、そのリスクは先送りにされてしまっています。未来世代は原発のリスクのみを請け負い、利益を享受することは出来ません。
 レヴィナスは責任の源泉は〈顔〉にあると言いました。他者の〈顔〉が否応もなく投げかけてくる視線に対して、僕らはresponseせざるを得ません。これこそが原発が不正義であることのポイントです。しかし、生まれていない人たちの〈顔〉を私たちは見ることが出来ません。つまり未来の他者には責任を負えないのです。しかし、原発はリスクを未来世代に確実に間違いなく引き渡してしまいます。それはちょっとした未来ではなく、100年200年以上の未来かもしれない。未来の他者には責任を負えないにもかかわらず、原発は未来の他者のリスクを産み出してしまうということ、これこそ原発の不正義の核心があるように思います。
 もうすこし具体的に言いましょう。地震という震災と、原発という人災は区別されなければなりません。地震は人間の選択とは無関係に起こり得る危険Gefahrです。ドイツの社会学ウルリッヒ・ベックは、自然災害の危険と区別される、人為的な選択によって生起する確率論的な危険性を〈リスクRisiko〉と呼びました。地震も確かに確率論的に生起するでしょう。しかし、それが直接に災害として影響を及ぼすのはごく限定的です。もっと言えば、ある地震を想定し被害総額や被害地域を想定することは十分可能です(その意味では震災の被害は不確実ではないのです)。しかし、人為的な〈リスク〉はこうした確率論的な想定の収束を許しません(放射能がどこまで広がるか、汚染物質がどれだけ長く持続するかは、研究者の間に意見の一致が見られません)。しかも確率論的な収束がつかないにもかかわらず、一度それが被害を引き起こすとその被害総量は膨大なのです。
 それゆえ、福祉政策と原発は根本的に構造が違います。福祉政策が与える将来世代に対する負担は、現行の税制を調整することで、減らすことができるでしょう。現行世代が現行世代分の福祉を負担するような税システムが考えられるからです。しかし、原発についてはどうか。原発のリスクは、不確実に拡散し持続するものです。福祉政策と違って、原発は現代世代の享受する利益を現代世代だけの負担で補うことは出来ません。負担は、否が応でも将来世代に移転されてしまいます。これは果たして正義と言えるのか。未来世代への責任など考えなくてもいいのではないか、という反論があり得るかもしれません。前述したように、未来の他者に責任を取ることは出来ないからです。しかし、本当に将来世代への責任を考慮しなくていいのでしょうか? 例えば、現代世代の生活の快適さのために森林を伐採し石油を枯渇させCO2を大量に排出し、温暖化を超加速させることは許されるでしょうか? 福祉政策に限って言っても同じことが言えます。将来明らかに少子化になることが確実である状況において、現代世代の福祉だけを考慮して、将来世代に多大な負担を追わせるような税制を設定することは許されるでしょうか? 
 さらに、もう少し強く反原発を擁護してみたいと思います。反原発は「大きな物語」失効以後における普遍的善になりえるのではないでしょうか。「神」や「進歩」、「マルクス主義」という「大きな物語」はポストモダンにおいて失効し、あらゆる価値観は相対化されてしまいました。「大きな物語」は普遍的な価値(善)を意味します。それが失効したのにはいくつかの理由があると思いますが、大きな要因として、普遍的な価値を謳うどのようなイデー(idee/idea)であれ、特定の集団/時代にのみ妥当する価値=イデオロギーだということが暴露されてきたことを挙げることができると思います。すなわち、失効した「大きな物語」においては、普遍性の位置を特殊な善が占めていたのです。それゆえ、真に普遍的善が可能であるためには、普遍性の場を空虚に保ち続けなければなりません。普遍性の場をいかなる特殊な善にも占めさせてはならないのです。
 ところで、原発の〈リスク〉は、先にも述べたように、国境や時代を超えていくものです。その意味で〈リスク〉は普遍性を持たざるをえません。そして原発の〈リスク〉は単純に善ではありえません。未来世代が負う〈リスク〉を、現代世代は肩代わりできないどころか、未来世代は原発の利益を享受することも不可能かもしれません。〈リスク〉は、言うならば普遍的な悪なのです。それゆえ、反原発が普遍的善であるというのは、普遍的な〈リスク〉を生じさせ「ない」という消極的な意味においてです。普遍的善としての反原発には、何ら積極的な意味は充填されていません。その善は単に「普遍的な〈リスク〉を生じさせない」という否定的な言明に留まるのです*1

*1:それゆえ、反原発はたとえエコロジー的なものであってもいかなる積極的内容を持つ善からも切り離されて捉えられねばなりません