非常に不謹慎なことども

人はあまりに自分の境遇が惨めだと「笑うしかない」と言う。そのとき笑うのは誰なのか? もちろんそれは当の本人以外の何者でもない。悲惨な境遇にある人は、他者から笑われるのではなく、自ら力なく笑うのである。しかし、とはいえ、その「力ない笑い」は一体何に向けられたものなのか? 途方にくれた笑いが目指しているものは何か。
それは悲惨さからの脱出である。笑う身振りによって、自らの悲惨な境遇から自分の存在を切り離し、切り離すことで即自的な体験の悲惨さから脱出するのである。それは、面白くて笑うのではなく、むしろ(何ら面白くもないことについて)笑うことで自身を惨めさから脱出させるのだ。

しかしいま問題にしたいのは、もっと不謹慎な事態だ。絶望的な状況にある者が自らを救うために笑う、「力なく=力づける笑い」ではない。そうではなく、他者の絶望に際して笑いを禁じえないような場面をこそ、問題にしたいのだ。それは徹底的に不謹慎であるような笑いだ。他者の体験した悲劇は笑劇として受け取られ、勃発的な笑いを引き起こす。それは不謹慎であり暴力的でさえある。
このような例を出すのは、非常に不謹慎なのだがそうした非難を恐れずに言えば、あの津波で流された船が、潮が引いた後にビルの上に乗っかっているというような光景は、多少の笑いを引き起こすだろう。もちろん多くの死傷者と破壊を知っているからこそ、そこには安易に笑えない文脈が形成されている(し、進んで笑おうとも当然思わない)が、実際、船がビルディングに乗り上げている光景はそれ自体では愉快である。圧倒的な悲惨さのなかに、ほんのわずかでも予想外の事態が紛れ込むとき、笑いは否応なく引き起こされる。
その笑いは、しかし、ただただ不謹慎で暴力的なだけなのか。笑いが持つ暴力的な力は、むろんそれが例えば嘲笑のようなものに向かうのだとすれば暴力以外の何物でもないだろう。しかし、突発的に笑ってしまう状況において、何に対して暴力が、力が、振るわれているのかに注目すべきである。その暴力が対象とするのは、その場を支配している規範、文脈、"空気"、人間関係である。それらは、突発的な予想外の事件によって、笑いに飲み込まれ、一時的に宙吊りにされる。アドルノは言う。

笑いは主体の負い目と密かに結びついている。しかし、笑いが申し立てる法の停止(der Suspension des Rechts)の中に、笑いはまた、しがらみを乗り越える道を指し示す。笑いは故郷へ至る道を約束する。(『啓蒙の弁証法』第二章オデュッセウスあるいは神話と啓蒙)

アドルノが言う法の停止こそ"不謹慎な笑い"がその暴力によって成し遂げるものだ。笑いは、目前の規範や法の支配にもかかわらず、主体に襲いかかる。それは全く意図せざる可笑しみであり、受動的な笑いである。絶望する他者を目の前にして、人は何かに襲われたかのように笑ってしまう時がある。それは確かに、悲観する他者を冒涜するような笑いではあるが、しかしそれはどうしようもないものでさえある。可笑しさや面白さが突如として傍観者に沸き起こってき、傍観者は笑わずにはいられなくなる。しかし不謹慎な笑いは、その全く意志せざる可笑しみのゆえに、法を、規範を、ひいては他者の悲しみの原因となっているものを宙吊りにする。アドルノは正しくもそれを「故郷へ至る道」であると述べている。つまり、他者の悲しみの根源が、同時に不謹慎で否応ない受動的な笑いの根源でもあるのだ。それは、他者の悲しみを嘲笑する笑いではなく、その悲しみの根源を共有することによって不可避に引き起こされる笑いであり、言わば悲しみを宙吊りにする。不謹慎な笑いは、悲しみと笑いが根源的に共有される秩序だった故郷へと誘うのである。

圧倒的な絶望に際しても、われわれはどうしても笑ってしまう時があるし、その受動性を否定することはできない。