Occupy as Form (ジュディス・バトラー)

形式としてのオキュパイ(抜粋*1) ジュディス・バトラー(Judith Butler)

オキュパイ・ムーブメントが政治的な領域に現れて以来、批判的・懐疑的な人々はともに「それで、いったい何を要求しているというんだ?」と問うてきた。ごく最近の数カ月においても、オキュパイされた多くの公共的な場所が政府の意に従う警察権力によって元通りになっているのだからオキュパイ・ムーブメントは勢いを失ってきているのではないか、と懐疑派は疑っている。そこでまずは、何が要求されているのか、という問いについて考えることにし、そのあとで今オキュパイ・ムーブメントはどこへ向かっているのかという問いに立ち返ることにしよう。

第一の問いについて考えてみれば、次の考えがいかに確固たるものであるかがわかる。それはつまり、政治的な運動は――もしそれが「政治的」と呼ばれたければ――(a)具体的で個別的な要求のリストの周りに組織されていなければならず、(b)それらの要求を満たそうと努めなければならない、というものだ。さしあたり、どういった種類の政治がそうした想定によって特徴付けられ、また特徴付けられないのかについて考えてみたい。別言すれば、政治は満たされうる一連の要求を提示しなければならないということが当然のように思われるにしても、そのことはわれわれがそうした種類の政治を当然だと思うことが正しいということを意味しはしない。そこで、こうした懐疑的な主張の構成要素に目を向け、この第一の問いによっていかなる種類の政治が想定され促されているのかを見てみる必要がある。さらに、オキュパイが追求する政治がこうした政治観にそぐわないだけでなく、むしろ別様な政治観を打ち立てようと活発に挑戦しているのかどうか、それを考察してみよう。そこで、懐疑的な立場の人が持つ、二つの基本的な考えを見ることからはじめることにしよう。それは(1)様々な要求はリストという形で表明される、(2)様々な要求は満たされうる形を取る、という二点である。

(1) 要求はリストの形をとるべきである。
オキュパイ・ムーブメントが次の三つの要求を掲げているところを想像してみればいい。(1)自宅の差し押さえの停止、(2)学生の借金の帳消し、(3)失業率の低下。ある意味で、これらの要求のそれぞれは確かにオキュパイが目的とするものと共鳴するところがある。こうした問題の全てに関心がある人は当然オキュパイに参加しているし、自宅の差し押さえや収拾不可能な学生の借金、失業率について反対を表明するデモに参加している。それゆえ、要求のリストは明白にオキュパイ・ムーブメントに関係がある。だがしかし、オキュパイ・ムーブメントの政治的な意味や効果が完全に了解されるには、こうした要求、つまり実際に非常に長々とリストアップされた要求を理解することが必要だ、と言うのであれば間違っている。その第一の理由は、「リスト」が一連の諸要求を意味しているということだ。ところが、一つのリストはこうした要求と別の要求がいかに関連しているのかを説明することはない。

仮に運動の主要な政治的目標がいやます富の不平等に注目を集め、それに抵抗することであるならば、それはそうしたリストが含んでいる具体的な要求の全てに関連する社会的・経済的な事実にすぎない。しかし、そうだとすればそれは多くの人が持つ一つの要求を実際には考慮していないことになるだろう。つまり、富裕者がますます富の大部分を独占し、貧者が今やますます人口の大部分を占めるようになるという増大する不平等に注目を集めるためには、いったいどんな言葉や活動によればいいというのか。リストの中の個別な問題のそれぞれについて考えることによって、この点が明らかになる。リストには、社会保険を含む社会保障の縮小や、労働者を使い捨ての人間にする「派遣」の増大、公的で安価な高等教育の破壊、初等・中等学校の過密状態、富裕者への税金免除、賃金の引き下げ、刑務所産業に対する政府の保障増大が含まれているだろう。もちろんそういったリストを作ることができるし、それにさらに加えることもできるし、またそのリストをより具体的に表すことさえできる。しかし、リストの中にあるどの項目も単体では、どうしてそれらすべての項目がひとまとめにリストアップされているのかを説明することはできない。だが、もし同時代の資本主義の形態から直接的に引き出される富の格差や不平等が個々の項目という形をとって例示されているのであり、それらはともに資本主義が依存し再生産しているものについての、つまり社会的・経済的不平等についての証拠を提供しているのだと、そのように論じるとすればいかにシステムが――より具体的に言えば――いかに資本主義システムが機能しているかについての主張を展開することになるだろう。それはすなわち、不平等はますます拡大して新しく苛烈な形式を生み出しているということ、また不平等が加速的に進行していっているのに資本主義を動かすことで既得権益を得る現行の政府や国際機関はそれを不問に付しているということである。

懐疑派ならば、それでも次のように反論するかもしれない。「しかし、個々の問題に個別に対応していき、人々の生活に現実的な変化をもたらすというのでは駄目なのか? 全員が何か一つの問題をそれぞれ引き受ければ、問題を列挙していくことができ、個々の問題について実質的な解決を見つけることができるのに」。しかしながら、この見解を取るということは、リストの中の要求がバラバラになりうるものだと主張していることにしかならない。だが、もし個々の問題を相互に結びつけているものがなんなのかを知る必要があり、この問題を解決しようとするのであれば、私たちの政治は経済システムそれ自体のシステム的・歴史的な特徴に訴えかけるしかないのである。

事実、格差の拡大(そしてますます少数の人間に富がいっそう蓄積され、より多くの人間が貧困に陥り簡単に切り捨てられるようになっていく事態)が、いかに特定の経済的組織から――この格差をいっそう先鋭的な形で生み出すのに適合した経済組織から――生まれてきているのかを理解するなら、リストアップされた要求のいずれを主張するためにも、個々の要求が指し示す格差のより大きな構造を理解しなければならないし、そうした経済体制に異議を唱える方途を探らねばならない。経済体制の運動に細かに適合しようとするのでは駄目なのだ。実際、仮に不平等の再生産を主張せずにリストアップされた問題を「修正」しようとするならば、そしてその不平等がより鋭利な形で再生産され続けているとすれば、リストから個別の要求を取り除こうとしてみても、そのリストはただただ膨れ上がっていくだけだ。

克服しようとする不平等が位置する幅広い動向を理解することなしには、ある種の不平等を是正することなどできない。すべての要求は個別に細分化されなければならないと考えることによって、社会的・経済的公正を犠牲にして私たちは目標を失い、ビジョンを矮小化することになる。もちろん、不平等の構造的再生産に終止符を突きつけるために闘いながら、同時に個々の問題に取り組むことは可能だ。しかし、それが意味するのは、集団や政治的な意見表明は、構造的不平等の問題に注目し続けなければならないということなのだ。もし現在の経済体制の中にこうした問題を解決するための十分な力があるのだと考えるのなら、そのときには奇妙な想定をしていることになるだろう。リストアップされた要求全てを特徴付けている不平等を生み出す当のシステムは、私たちの要求の受け取り先として機能しうると想定していることになるのだ。このことから、次に、懐疑派の問いが前提としている2つ目の考えの考察に移ることにしよう。

(2)要求は満たすことができるように為されるべきである。
この前提は合理的であるように思われる。しかし、要求は満たされうるように為されねばならないと論じる人は誰でも、人々が自分の要求を満たしてもらうように訴えかけることのできる誰かが存在したり、あるいは現行の制度的な権力がそうであるなどと思い込んでいるのだ。ストライキを後ろ盾にした労使交渉は、大抵の場合、様々な要求をリストアップして、もし要求が満たされるならストを回避し、満たされないならストを開始したり長引かせたりしようとする。しかし、会社や企業や国家が交渉の合法的な相手のことを考慮しないのならば、そうした権威に対して交渉による解決を訴えかけたところで何ら意味はない。実際、そうした権威に要求を満たすように訴えかけるならば、かえってそこに正当性を帰することになってしまうだろう。それゆえ、満たされることができるような要求を出すということは、根本的には、要求を満たしてくれる権力を持つ組織に正当性を与えることを当てにしているのだ。そして、それら権威に直接要求することをやめた時に、あいにくゼネストの中で、その権威がいかに不正であったかが明らかにされるのである。これは、ガヤトリ・スピヴァクのオキュパイ理論への寄稿の持つ重要な含意の一つである。

だが、そういった現行の諸制度が、不平等の再生産に依存しそれを促進する経済体制と共犯関係にあるのだとすれば、もはやその諸制度に格差状態を終わらせるよう求めることなどできない。そんな訴えかけは、政治的発言のさなかに自壊してしまうだろう。簡潔に言えば、現行の政府や国際金融機関、国内・国際企業が要求を満たすことを求める訴えかけは、不平等の元凶である当のものにより多くの権力を握らせることになるのだ。結果、戦略を別に立てることが必要になるのであり、オキュパイ・ムーブメントにおいて今私たちが経験していることは、不平等の再生産に注意を促しそれに反対する、一連の戦略がまさに発展しつつあるということなのである。

*1:このテクストはUCバークレーにあるアーツ・リサーチ・センターのセッション”Occupy as Form”に、バトラーが寄せたオキュパイ・セオリーのためのエッセイの抜粋である。詳細は、http://arcdirector.blogspot.com/2012/02/occupy-as-form-judith-butler.htmlを参照。