徴兵制?

徴兵制の復活を公言する11人

そもそも、こうした発言をする人に僕ら若者が一切共感できないのは、徴兵制に従事するのが若者のみであり、こうした年寄り連中はそこには参加しないことにあります。もし、こうしたおじいちゃんおばあちゃんも、徴兵制に半年やそこら参加して、無意味な訓練を受ける――それこそ生死をさまようこと必至ですが――、というのであればまだしもですが。

とはいえ、この人らの徴兵制導入論には、より根深い問題があります。
自分の国を自分らで守る、という考え方があります(パトリオティズムあるいは古典的共和主義と言います)。「自分ら」という言葉が含意するのは「その国に住む主権者すべて」です。
かつて、古代ギリシャやローマにおいて、「市民」は自分が属する都市国家(今日の国民国家とは違うものです)を守るためにいざというときには自ら武器を持って戦う、ということが美徳(virtú, virtue)、「市民的徳」とされました。
上記のリンク先の間抜け面を引っ提げた連中も、一見こうしたことを実現するために徴兵制を導入すべきだ、と言っているように読めます。
しかし、上記の人々、「今の若者はなっとらん」式の道徳論をしたり顔で唱える人々と、古代ギリシャ・ローマにおける「市民的徳」は決定的に異なっています。
上記の人らは、揃ってこう言っています。「今の若者はなっとらん。半年くらい徴兵制に従事して、道徳や社会の秩序を学ぶべきだ。」つまり、ここで徴兵制は道徳――しかもそれは現在の社会秩序に服従すべきだという保守的な道徳です――を教えこむための制度として考えられているのです。さらに、彼らは「そこでは、身体と精神を鍛錬するのであり、戦闘の訓練をするのではない」とも言っています。この言明は、一見、徴兵制を戦争とは無関係の、平和な道徳的修行の場と位置づけているように見えますが、しかし、事実として徴兵制が存在すべき最大の理由は、国防、戦争にこそあるのです。それだから、彼らの発言の逐一は、「道徳」という言葉を隠れ蓑にして、徴兵制――結局は軍隊です――のもつ暴力性を正当化するにすぎません。
古代ギリシャ・ローマにおいて、有事の際に自ら武器を持って戦うということが「市民的徳」とされたのは、こうした理由とは全く異なります。第一に、自らの国家を守るべき理由は、そこにおいて自らが「市民」として政治に参加する自由を持っていたからです。「政治参加」のここでの意味は、現代的な「投票」以上のものがあります。それは実際に広場で公的な議論に参加し、行政官としても業務を行うということなのです。そうした政治的・市民的な自由を与えてくれる唯一の政治体だからこそ、守るべき義務が生じるのです。軍隊が道徳に役に立つ場だから、という訳のわからない理由ではないのです。
第二に、古代ギリシャ・ローマにおいては、自律ということが市民的徳の重要な要件でもありました。自律というのは、自らの生命を他人に支配されていない(つまり奴隷ではない)ということです。自律がなぜ「徳」かと言えば、他人に支配され依存しているのでは、自分の生命が長続きする可能性が失われてしまうからです。そして、この自律を政治に拡張した時にあらわれるのが、民主制です。君主制のことを考えてみましょう。君主制においては、人々は自ら政治的決定権を持たず、その生活が君主の政治に依存しています。それゆえ、人々はそこでは自律ではなく依存状態、つまりは奴隷とかわらない状態にあることになります。たと名君主が素晴らしい政治を行ったとしても、それが長続きする可能性は低く、国家は衰退してしまう可能性が大きくなります。反対に、民主制とは、自ら政治に参加し、自分たちで決定・同意したこと以外のいかなるものにも服従しない政体です。したがって、民主制においてのみ、政治的自律というものが達成されるのです。そこでは君主制に比して、国家の存続の可能性が長くなるでしょう。市民の同意こそが、政治を左右するからです。今まで述べたことは、国内の政治に関しての自律でした。しかし、他方で、この自律という「徳」は対外的にも重要で、そこに軍隊の問題も出てきます。ある国家が他の国家に支配されるのなら、それは国家間における主人―奴隷という関係に他ならず、自国が存続するかは他国次第です。それゆえ、国家の自律のために自国を守る義務が生じます。
さらに、自律ということから戦場に赴いて自国を守ることが市民的徳となる、第三の理由が、生じてきます。ポイントは、市民が自ら武器を持って戦場に赴く、ということです。このことと逆の事態は、市民自ら兵士となるのではなく、職業的な軍人(傭兵)を雇ったり他国に自国を守ってもらう(日米関係みたいに)ということです。この場合、市民的な自律は破壊されてしまいます。なぜなら、自国の政治体に参加していない人々に国防を委ねるということは、常に裏切りや怠慢の可能性をはらんでしまうからです。それゆえ、自分で武器を持ち戦う、ということが自律という点でも重要であり、それゆえ「徳」とみなされたのです。
翻って考えてみれば、上記のリンクに登場する面々が述べていることは、いっさいのこうした共和主義的・パトリオティズム的な「自律」「徳」ということとは無関係であることがわかります。僕としては、戦争はなくなるべきだし、日本は軍隊を――自衛隊を――持つべきではないと思いますが、それを差し引いても現状の日米関係や自衛隊という職業軍人に国防が依存している状態は、「自律」には程遠いものだと見なさざるをえません。さらに言えば、共和主義的な自主自衛が徳と見なされるためには、国家内において人々が「市民」として政治的に活動していることが必須でしたが、日本においてそうした政治的自由が実現しているようには見えません(近時の例では、一万人規模のデモが起きても、官邸はそれを無視し続けています)。また、いっそう原理的に考えるなら、古典的共和主義のような自主自衛における「自律」が、現代のテクノロジーを用いた戦争において成し遂げられるかどうかは疑問です。古代においては、自ら武器を調達して戦争に赴くことが重要でしたが、現代では戦争はもはや槍や刀、弓矢で戦うものではなく、大量殺戮兵器を用いて行われています。

パトリオティズムとナショナリズム―自由を守る祖国愛

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人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統

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