「嘆かわしい」マジョリティ?/ヤン・ヴェルナー・ミュラー
政治学者ヤン・ヴェルナー・ミュラーの大統領選に関する考察です。
ミュラーさんは、ワイマール体制やカール・シュミットの研究のほかに、近年では『憲法パトリオティズム』という著作があり、最近では『ポピュリズムとは何か』という本を出版しています。
翻訳があるといいのにと思います。
- 作者: Jan-Werner Mueller
- 出版社/メーカー: University of Pennsylvania Press
- 発売日: 2016/09/19
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バラク・オバマが適切に述べているように、ちょうど結果が出たアメリカ合衆国大統領選挙の投票のなかに、デモクラシーそれ自体が存在する。しかし、ドナルド・トランプがヒラリー・クリントンに驚くべき仕方で勝利した以上、我々は今やアメリカ人の大多数はアンチ・デモクラシーなのだと確知しているのではないか。クリントンに投票した人らはトランプの支持者に、そして新しい政府にどのように接すればよいのか。
クリントンがもし勝利していたならば、トランプは間違いなく新大統領の正統性を否定していたことだろう。クリントンの支持者はこうした振る舞いをすべきではない。トランプは得票数で負けているのだから、圧倒的多数の人民からの委任を受けたのだと主張することはできないと指摘されるかもしれないが、しかし結果はこの通りだ。とりわけ、トランプのポピュリスト的なアイデンティティ・ポリティクスに、異なる仕方でのアイデンティティ・ポリティクスを持ち出してきて応じるべきではない。
その代わりに、クリントンの支持者はトランプの支持者の利害に訴えかける新しい方策に焦点を当て、他方でトランプのアジェンダに脅かされていると感じているマイノリティの権利を断固として擁護すべきである。そしてリベラル・デモクラシーの制度を守るためにできることをすべてなさなければならない。トランプがチェック・アンド・バランスを弱めようとするのであれば、そうだ。
激烈な選挙闘争の末に生じた一国の政治的分断を癒やすというような、ありふれた決まり文句を超えて進むために、真性のポピュリストであるトランプがどうやって投票者に訴えかけ、その政治的な自己理解(self-conception)を変容させたのか、これを正確に理解する必要がある。正しいレトリック、そしてとりわけ妥当な政策的対案によって、こうした自己理解は再び変容しうるものである。現在トランペンプロレタリアート(Trumpenproletariat)に属している人々は決して永久にデモクラシーから失われてしまったわけではない。クリントンが彼らを「望みがない(irredeemable)」と評する時に示唆しているようには、失われてしまったわけではないのだ(彼らのなかにはレイシスト、同性愛嫌悪、女性嫌悪でありつづけようと決心している人もいるという点で、クリントンは正しいとしても)。
トランプは今回の選挙期間中、非常に攻撃的で、明らかに誤った見解をあまりに多く述べてきたので、とりわけ本性を露わにするような一文は全く見逃されてしまった。五月のある集会で彼は宣言したのだった。「唯一重要なことは、人民の一体性です。その他の人民は無意味なのですから」。これはまさに明らかにポピュリストのレトリックである。一つの「本当の人民(the real people)」が存在するとポピュリストは説明する。そしてただ自分だけが「本当の人民」を忠実に代表するのであり、その他すべての人は排除されうるし、実際排除されなければならない、というのだ。これは、ベネズエラの故ウゴ・チャベス大統領からトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領にいたるまで、様々な人物によって用いられてきた類の政治的言語である。
ポピュリストが必ずや実行することに目を向けてみよう。ポピュリストはまず本当の人民を象徴的に構築する。本当の人民がもつ本来的な単一の意志と呼ばれるものを、ポピュリストはこうした構築から引き出す。トランプが七月の共和党大会で行ったように、である。彼はそこで「私があなた方の声なのです」(そして彼特有の控えめな感じで「私だけがあなた方の声を修復することができるのです」)と述べたのだった。これは全く理論的な処置である。ポピュリズムの支持者が時おり論じるのとは反対に、それは一般の人々から汲み取られた実際の意見とは何の関係もない。
単一の同質的な人民が存在し、それは誤ることなどなく*1、その意志を適切な仕方で実行するためにはただホンモノの代表者が必要だ――こうしたことは幻想である。しかし、この幻想は実際の問題に対応できてしまう。チャベスやエルドアンが登場する前には、ベネズエラとトルコには完璧に多元的なデモクラシーが存在していたと考えるならば、おそらく間違いだろう。剥奪されているという感情、孤立感、こうしたものはポピュリストにとって肥沃な土壌である。ベネズエラとトルコでは、実際、構造的に差別され、政治過程からほとんど排除されている層が住民のなかに存在した。アメリカの低所得者層は政策には何の影響力も持たず、ワシントンで実質的に代表されていないという、はっきりとした証拠がある。
再び、ポピュリストがこうした状況にどのように反応するのか見てみよう。より公平なシステムを求める代わりに、ポピュリストは虐げられた人々に、彼らこそが「本当の人民」だと述べるのである。アイデンティティに関する主張は多くの人々の利害が軽んじられているという問題を解決することになっている。トランプのレトリックがもつ特有の悲劇的効果――そしておそらくそのもっと悪質な効果は――、多くのアメリカ人がトランプによって自らを白人ナショナリスト運動の一部であるとみなすよう説得されてしまったということである。遠回しに「オルタナ右翼」と呼ばれているものの――現代の白人優越論であるのだが――代表人物が、トランプのキャンペーンの中核を担っていた。トランプはマイノリティを中傷し、あらゆるポピュリストと同様に、マジョリティ集団を迫害された犠牲者として描き出すことで、人々の不満感を煽ってきた。
こんな風にはならずにすんだのだ。人民を代表しているのは自分だと主張することにおいて、トランプは明らかに成功してきた。しかし、代表というものは、それ以前に存在した要求に対して単に機械的に応答するということでは決してない。むしろ、市民を代表するという主張はまた、市民の自己理解を形成するのである。重要なことは、こうした自己理解を白人のアイデンティティ・ポリティクスから引き離し、利害の領域に差し戻すことである。
だからこそ重要なことは、トランプの支持者を切り捨てたり、それどころか道徳的に貶めることによって、トランプのレトリックに確証を与えてはならない、ということである。そんなことをすれば、ただポピュリストが政治的に株を上げるだけである。「それ見たことか、まさに我々が言ったとおり、実際エリート連中はあなた方を嫌っているのだ。あいつらは今や負け惜しみを吐いているぞ」というわけである。したがって、トランプの支持者をレイシストであるとか、あるいはクリントンがしたように、「望みのない」「嘆かわしい」人々であると一般化することによって、悲惨な結果になるのである。ジョージ・オーウェルはかつてこう言った。「もしある人を敵に回したければ、お前の病に効く薬はないと言うことだ」、と。
もちろん、アイデンティティと利害は結びついていることが多い。ポピュリストからデモクラシーを守ろうとするならば、アイデンティティ・ポリティクスの危ない橋を渡ることが必要になるときもある。しかし、アイデンティティ・ポリティクスだからといってエスニシティに訴える必要はないし、まして人種に訴えかける必要はなおさらない。ポピュリストは常に反多元主義者である。ポピュリストに対抗する人がしなければならないのは、公平さという共通の理念に資する、多元的な集合的アイデンティティの理解を作り上げることである。
トランプは合衆国憲法を軽んじるのではと多くの人が心配するのも間違っていない。もちろん、憲法(constitution)の意義というものは常に争われるものであるし、非党派的な仕方でそれに訴えかければすぐにトランプを抑止できるだろうと考えるのはナイーブだろう。それでも、アメリカの建国者らが、たとえ議会が支持したり最高裁が好意的な判決を下すとしても、大統領が実行できることに制限をかけようとしたのは明らかである。トランプの支持者を含めた十分な数の投票者が、物事を建国者と同様に見てトランプに圧力をかけ、アメリカの国制の伝統に含まれるこの変更不可能な要素を尊重するようにトランプを仕向けることしか、望みえないだろう。
*1:訳注:一般意志は誤ることがない、というのはルソーの主張である。