「暴動における共なるもの」ネグリによるアジテーション

この記事は「暴動における共なるもの」(“The Common in Revolt” by Judith Revel and Antonio Negri, August 13, 2011)の英訳からの重訳です。アントニオ・ネグリとその著作の仏訳者であるジュディス・ルヴェルによる北アフリカから北ヨーロッパにかけての暴動-運動についての時事論説、あるいはアジテーションのようなものです。スピード重視で訳したので、不明瞭な点や単に誤訳のところなどあるかと思いますが、ご指摘いただければ幸いです。

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 それほど想像力を必要とせずとも、現在の経済危機を分析し、その原因と社会的影響を考えたのならば、ジャックリーの反乱に似た都市の暴動を予言することができたはずだ。”Commonwealth*1はそれをすでに2009年に予測していた。だが、他方で、我々が予期しなかったことは、イタリアでは、運動のただ中にあって、この予言が無視されえたということなのだ。実際、その予言は古めかしく見えたのだろう。その代わりに、人々は言った。今や、危機に対する幅広い協力関係を再建し、運動の中で組織-コミュニケーション-承認という形態を確立し、政治の代表に訴えかける時なのだ。だがしかし、いま我々が直面しているのは、多かれ少なかれ古典的な暴動の形をとった運動である。しかも、その運動-暴動はいたるところで起きていて、性懲りもなく考えられ続けてきた古い地政学的な文法を却下するものだ。それゆえ、我々が見なければならないのは以下のことである。
(1)新しいプロレタリアート――不安定で非正規雇用の労働者からなる――が危機の中間層に存在する。これらの人々は、闘争において異例のやり方で結び合わされた多様な主体であり、地中海南部の国々においてのように、新しく、より民主主義的な統治を求めている。ベン・アリの政治的独裁と、我々のエセ民主主義の政治-経済的独裁は、同じものとは考えられないかもしれない、何十年にもわたって後者がまさに前者を打ち立て、支持し、保護してきたとしても。しかし、今のところ、ラディカル・デモクラシーへの衝動はいたるところで噴出し、様々の反乱の中で共通のものとなっている。その反乱は、様々な立場からなされ、互いの要求を混ぜあわせ、織り交ぜ、異種交配させているのだ。
(2)まさに同様の社会的諸力――製造業や情報産業、あるいはそれらの混合という経済体制によって明確にコントロールされた階級関係のなかで、経済危機に苦しんでいる人々――が、同様の決意を胸に、様々な領域(初期には労働者や学生、より一般にプレカリアートの運動だったが、今では「アカンパドスacampados」*2のような複雑な社会運動になっている)を移動している。
(3)純粋な抵抗運動の復活は、今までと同様に複雑な社会的構造によって交差させられ、配置される。垂直に(例えば中間階級が排除されたプロレタリアに混ざる)、また水平に(例えば都市の様々な区画を横切り、高級住宅地とサスキア・サッセンの言うブラジル化したゾーンの間を引き裂く。ブラジル化したゾーンでギャング間の闘争が起きれば、カラシニコフ自動小銃の弾丸の跡が近所の壁に残る。そこでは組織された闘争の唯一の――ドラマティックでエントロピックな――オルタナティブは、組織された犯罪なのだ)。
 最近のイギリスでの暴動は、この第三の種類に属しており、フランス郊外に影響を与えたこともあるものと極めて類似している。怒りと自暴自棄が混ざりあい、自立的な組織が生まれ、また生の耐えられなさを表現する他の種類の組織(近隣の人々のアソシエーション、ネットワーク化した連帯、サッカー・ファンのクラブなど)が具現化したが、それらは瓦礫と化してしまった。だが、これらの暴動が後に残していった瓦礫――それは確かに人を不安にさせる――は、結局、多くの人々の日常生活をつくっているものとそれほど異なるわけではない。それは、どうにかこうにか紡がれる生の断片なのだ。
 どのようにして、共(the common)を考える立場から、これらの複雑な現象を広く議論していくことができるだろうか。以下で論じるのは、単に議論のための場所を開く方策である。
 何よりもまず、支配階級が所有するマスメディアによって表明される、ある種の解釈を暴くことが必要だ。第一に、マスメディアによれば、これらの暴動は、政治的観点から「ラディカルな」多様性という点で考えられねばならない。明らかなのは、これらの運動が政治的に多様だということである。しかし、「ラディカルな」と言うだけならば、馬鹿げたことだ。実際、これら全ての運動-暴動はラディカルな特徴を持っているが、それはベン・アリや他の独裁者に反対しているからではなく、あるいは、何であれサパテロ・スペイン首相やパパンドレウ・ギリシャ首相の政治的裏切りを非難するからでもなく、また、キャメロン英首相を嫌悪し、ヨーロッパ中央銀行による負担を拒否しているからでもない。
 そうではなくむしろ、それらの運動-暴動がラディカルであるのは、経済危機(何よりも間違っているのは、経済危機を、基本的には健全な経済システムを直撃したカタストロフだとみなすことであり、何よりも危険なのは、危機以前の資本主義経済にノスタルジーを抱くことだ)のツケを払うことを拒否しているという点にあるのだ。つまり、言うならばそれは権力者の利益を襲う富の巨大な運動であり、西側体制(民主主義、独裁制、保守、革新のような)政治形態の中でと同様、組織されたものなのだ。
 これらは、エジプトやスペインや英国で、経済が世界のすべての人々の生命に仕向けてきた従属を、搾取を、略奪を、同時に拒否することの中から生まれた暴動である。そしてまたそれらは、今日の生政治的占有がはらむ危機が、管理されるさなかに生じた政治形態でもある。さらに、これは、いわゆる「民主主義的」と呼ばれる体制全てに当てはまることなのだ。そのような統治体制は、一見したところ「礼儀正しく」見える社会において好ましい。だが、その「礼儀正しさ」とは、弾圧された人々の尊厳や人間性に対する攻撃を、民主主義が隠蔽することを意味するのだ。しかし、政治的代表制は、今まさに崩壊しつつある。西洋民主主義の基準によって、ベン・アリのチュニジアの代表制とキャメロン首相のトッテナムやブリクストンの代表制には根本的な違いがあると主張するならば、それは単に明白な現実を否定していることになる。どちらの状況でも、生に暴力が加えられ略奪されてきたのであり、生は暴動-運動の真っ只中で爆発するほかなかいのだ。両者に違いがあると述べることは、本源的蓄積の時代にまでさかのぼる代表制のメカニズムについて『モル・フランダーズ』の刑務所と『オリバー・ツイスト』の工場に向けて語る、ということではない。イギリスの街角に貼られている暴動に参加した若者の顔写真の隣に、銀行家や金融会社幹部の下卑た顔の拡大写真を共に並べるべきなのだ。彼らこそが、全ての共同体を今のような状態に追い込んできたのであり、経済危機からの恩恵をぬくぬくと受け続けているのだから。
 新聞の三面記事に戻ろう。マスメディアによれば、これらの暴動は、政治的-倫理的な意味合いを持たない。マグレブ諸国のような合法な暴動もあるかもしれない。独裁体制が崩壊したことによって悲惨な状況が生まれたのだから仕方あるまいというわけだ。例えば、イタリアの学生やスペインの暴徒(indignados)による抵抗運動は「非正規雇用は悪だ」という理由から、まだ理解することができる。しかし、他方で、イギリスやフランスのプロレタリアートの暴動は、他人の所有物の強奪や、フーリガン、人種差別によって特徴付けられるらしく、それは「犯罪」なのだとされる。これらのことは全く偽りに他ならない。というのも、これらの暴動は、多種多様ではあるものの、ある共通した性格を持つ傾向があるからだ。それらは「若者の」暴動なのではなく、人口の大多数の層が、全く耐えかねている社会的政治的状況を理解した上での暴動なのだ。労賃や社会福祉の質の低下は、古典派経済学やマルクスが、最低賃金と呼んだ労働者の再生産の限界をはるかに下回ってきた。ジャーナリストらは、これらの闘争が行き過ぎた消費主義によって引き起こされているなどと、よくも言えたものだ!
 ここで引き出される最初の結論は、これらの運動が「再-構成recompositional」として定義されうるということだ。暴動-運動は、実際、全ての人々を貫いていて――たとえ今まで保証されてきた労働者であれ、非正規雇用であれ、非雇用であれ、その場しのぎの違法労働者であれ――、貧困に抗する闘争のさなかで生まれる連帯の瞬間をきらめかせるのだ。落ちぶれた中間層やプロレタリアート、移民、流れ作業や情報労働に従事する者、リタイアした人、主婦、若者――これらの人々は、貧困の中で、また貧困に抗する党争の中で結び合わされる。ここにおいて、闘争を一つにしていく状況が見出されるだろう。
 第二に、即座に明らかになることだが(そしてこうした暴動-運動の中に消費者主義的な特徴を見出すような人々をもっとも慄かせるのだが)、この暴動-運動は決して混沌としたものでもニヒリスティックなものでもない。また、破壊のための破壊なのでもない。予測不可能な「お先真っ暗」状態がもつ破壊的な力に、制裁を加えて欲しくないだけなのだ。パンク・ムーブメント(それは他方でステロタイプを打破し、受動的にではあるが生産的だった)の四十年後、これらの暴動は記録されたものであれ人々の頭に根付いたものであれ、どのような未来-歴史にも終焉を宣言するような運動ではない。むしろ、それらは未来を打ち立てる運動なのだ。人々は理解している。暴動の引き金になった経済危機の原因は、プロレタリアートが生み出されていないという事態――上司のもとであれ、あるいは価値の占有というプロセスを下支えする社会的協同の一般的状況下であれ――あるいは十分に生み出されていないという事態なのではない。そうではなく、危機は、プロレタリア自らの生産力の果実が奪われることによって生じているのだ。言うならば、人々は自らのせいで起こったのではない危機に対して、償うよう強制されているのだ。しかし、人々はもうすでに医療や、退職制度、社会秩序にたいして代償を払ってきたではないか。ブルジョアが戦争のために資本を蓄積し、自らのために搾取している間に。だが、人々がもっともよく理解しているのは、危機を脱するためには、反逆者-暴徒が権力のメカニズムやそれを規制する社会関係を掌握しなければならないということだ。しかし、それらは政治的運動ではない、と反論する人がいるかも知れない。しかし、たとえ、人々が政治的に正しい(PC)立場(北アフリカの暴動やスペインの暴徒(indignados)のような)を表明していたとしても、これらの運動は、民主主義的秩序にとって有害な外部であったか、それに批判的であっただろう。
 もちろん、次のように付け加えてもいい。不可能というのは言い過ぎにしても、現在の政治的秩序のなかで、経済危機を乗り越えるための方策を批判するプロジェクトが生じてくるような経路を見出すことは、難しい。右派も左派は、殆どの場合いつでも似たり寄ったりなのだ。前者にとっては、富裕税を設定して40-50,000ユーロの所得者を狙うべきだし、後者にとっては、それが60-70,000ユーロになるだけだ。違いなどあるだろうか? 私有財産制や民営化・規制緩和の拡大を擁護することは、どちらの側にとってものアジェンダなのである。選挙のシステムはいまや、特権階級から代表を選ぶだけのものになってしまっている。今回の暴動はこれら全てを批判する。暴動が政治的かどうか? これらの暴動は政治的なのだ。それらは自らを――クレーマーではなくて――構成的権力の領域(constituent terrain)*3に位置づける。暴動は私有財産制を攻撃する。人々は知っているのだ、私有財産制が抑圧の原因であることを。そして、連帯を構成し自律的に組織することを、また福祉を、教育を、要約すれば共(the common)を、求め続ける。共こそが古い権力と新しい権力を分かつ水平線なのだ。
 もちろん、これらの暴動が即座に新たな統治形態を生み出すなどと考えるマヌケはいないだろう。しかし、今回の暴動が教えるのは、「一つのものが二つに分かたれている」ということ、一見無傷な資本主義の連帯であってもただの奇妙な幻影にすぎず、しかもそれが完全に回復するなどということは絶対にないということ、資本はまさにスキゾ的(分裂的)であり、暴動の政治はその裂け目のなかに自らを位置づけることができるのみであるということだ。
 我々は、暴動などアウトノミア運動の時代遅れの武器にすぎないと思っている仲間たちが、今何が起きているのかを考察してくれることを望む。法案可決の予定表によって自らを磨耗することによってではなく、暴動の中にある共のための新しい構成的な制度(constituent institutions)を発明していくことによって、来るべきものは何か、それを共に理解することが出来るのだ。

Commonwealth

Commonwealth

*1:Hardt, Michael and Antonio Negri. 2009. Commonwealth. Cambridge, MA: Harvard University Press

*2:よく分からないのですがスペイン語で難民?ホームレス?みたいなものでしょうか? twitterでご教示いただいたところによれば、スペインの「怒れる若者indignados」の運動を指しているみたいです。例えば、こんな記事が。

*3:構成的権力constitutional powerはネグリにとって重要な概念で、アレントや共和主義における権力――憲法制的権力――と似ている。はず。