'16読書日記 4冊目『ユートピア的身体/ヘテロトピア』フーコー

私が言いたいのは次のようなことだ。人は、中性的で無色の時間のなかで生きるのではない。人は、一枚の長方形の紙のなかで生き、死に、愛するのではない。人が生き、死に、愛するのは、明るい区域と暗い区域によって、階層の歳によって、階段の段差によって、くぼみによって、でこぼこによって、堅固な領域ともろく透過的で多孔質の領域によって、碁盤目状に区切られ、分割され、混交された空間の中である。通行のための領域が、街路、列車、地下鉄が存在する。一時の休憩所の開かれた領域が、カフェ、映画館、海水浴場、ホテルが存在する。また、休息と自分の家の閉じられた領域が存在する。ところで、互いに区別されるこれらすべての場所のなかに、絶対的に異なった場所が存在する。つまり、他のすべての場所に対置され、言わばそれらの場所を消去し、中性化し、あるいは純粋化するよう定められた場所である。それらは言わば、反場所contre-espacesなのである。〔…〕庭園、墓地、避難所asile、売春宿、監獄、〈地中海クラブ〉村〔……〕
そう! 私は、あれら異なった空間、あれら別の場所、私達が生きている空間へのあれら神話的で現実的な異議申し立てを対象とするような、ある学――まさしくそれを一つの学と呼ぶことにする――を夢想しているのだ。この学は、ユートピアを研究するものではないだろう。というのも、ユートピアというこの名前は、まったくいかなる場所も持たないようなものにとっておかねばならないからだ。この学は、ヘテロトピア hétérotopiesを、絶対的にほかなる空間を研究するだろう。〔…〕

本書は、フーコーがその仕事の初期の段階で行った二つのラジオ講演の翻訳、さらにジュディス・バトラーの「フーコーと身体的書き込みのパラドックス」とダニエル・ドフュールの「ヘテロトピア:ヴェネチア、ベルリン、ロサンゼルス間のある概念の苦難」、訳者である佐藤嘉幸「フーコーユートピアヘテロトピアから抵抗へ:解説にかえて」を収録している。フーコーの語りは非常になめらかで、喚起的であり、美しくさえある。ヘテロトピア――フーコーは時折「別なる場所Des Espaces Autre」という言葉でも語った――は、現在では地理学者エドワード・ソジャの仕事につながってもいる。バトラー、佐藤の解説もフーコーの仕事の全体と、彼が時折吐露するユートピア性(のようなもの)の関係を問うていて刺激的である。フーコー自身の(!)ラジオ録音も今ではyoutubeで聞ける、あのやや甲高い声が(原稿もあるhttp://oiselet.philo.2010.pagesperso-orange.fr/OC/Foucault.%20Conference.pdf)。
https://youtu.be/lxOruDUO4p8

第三空間―ポストモダンの空間論的転回

第三空間―ポストモダンの空間論的転回


この本を手にとったのは、森政稔「社会思想史の空間論のために」を読んだから。森先生はそこで、社会思想史あるいは政治思想史が「空間」というものについて真剣に思考してはこなかったことを指摘し、(フーコーヘテロトピアに刺激されつつ)網野善彦アジール研究とアレントの諸権利を持つ権利の議論(『全体主義の起源』第二巻の最後の章)を連関させて論じている。

森先生関連では、ルソーの空間の把握に着目したユニークな論文、「ルソーと空間の政治学」がある。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/479171251X/ryospage03-22

イードヘテロトピアを関連させて論じる、上村忠男の論考は有名。

ヘテロトピアの思考 (ポイエーシス叢書)

ヘテロトピアの思考 (ポイエーシス叢書)

〔社会思想史学会年報〕社会思想史研究 No.39 〈特集〉社会思想としての批評

〔社会思想史学会年報〕社会思想史研究 No.39 〈特集〉社会思想としての批評

『言葉と物』の序文では、ボルヘスの「シナの百科事典」に関する記述にヘテロトピアの例が見出されている。

このボルヘスのテクストは長いこと私を笑わせたが、同時にうちかちがたい、まぎれもない当惑をおぼえさせずにはおかなかった。〔…〕それは、おびただしい可能な秩序の諸断片を、法則も幾何学もないエテロクリットhétérocliteなものの次元で、きらめかせる混乱とでも言おうか。エテロクリットという語を使ったが、この場合、それを語源的に最も近い意味で理解しなければならない。つまり、そこで者は実に多様な座に横たえられ、置かれ、配置されているので、それらのものを収容しうる一つの空間を見出すことも、物それぞれのしたにある共通の場所を規定することも、等しく不可能だという意味である。ユートピアは人を慰めてくれる。つまり、それは実在の場所をもたぬとしても、ともかくも不思議な均質の空間に開花するからである。〔…〕だがヘテロトピアは不安をあたえずにはおかない。むろん、それがひそかに言語を掘り崩し、これ「と」あれを名付けることを妨げ、共通の名を砕き、もつれさせ、あらかじめ統辞法を崩壊させてしまうからだ。〔…〕ヘテロトピアは(しばしばボルヘスに見られるように)ことばを枯渇させ、語を語の上にとどまらせ、文法のいかなる可能性に対しても根源から意義を申し立てる。こうして神話を解体し、文の抒情を不毛のものとするわけである。

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

'16読書日記 3冊目『プラグマティズム入門』伊藤邦武

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

プラグマティズム入門 (ちくま新書)

前々からプラグマティズムについてはいいイメージを持ってこなかった(デューイとローティを読んだ)のだが、ガダマーを読むゼミのメンバーで、ローティについて読書会をしようという一見奇異な運びゆきとなったため、最近出たこの新書を読んでみた。プラグマティズムを源流・少し前・これからの、という時期で区切って論じている本書を読んで、一言で言えば、プラグマティズム観が大きく変わった。プラグマティズムにいいイメージを持ってこなかったというのは、その根本的な発想である「有用さ」に起因するところが大きかった。絶対的な真理などはない、真理論は必要がない、有用な信念だけで十分である、と言ったって、その有用さはどこからやってくるのか、どのように判断されるのか、ということが非常に疑わしかったのである。take it easy的な、いかにもアメリカ的な発想だとバカにしていたのである、正直。最近は日本でもプラグマティズムが流行しているが、一体あの馬鹿げた思想をどこの誰がありがたがっているのかと訝しんでもいた。ところが、本書が伝えるプラグマティズムの源流、とりわけパース、ジェイムズについて知れば知るほど、これはなるほど非常に面白い発想だと分かってくる。人間は生活世界のなかで信念の網の目をもって暮らしている。新しい知見や経験に直面した場合、その信念の網の目のつなぎは動揺せざるをえなくなる。そこで今まで持っていた信念の網の目をどのように編み直すのか、信念を変更するのか、ということが問題になる。うまく整合的に編み直せるような信念であれば、とりあえずは真理だと呼ぼう、このように言う訳である。ローティはあまりにも相対主義的にかつエスノセントリックに物事を主張してしまったため、科学と文化の違いなども破壊してしまおうとする。こうしたところにも怪しさが立ち込めるわけだが、本書が伝えるプラグマティズムのこれからの人々は、ローティからの揺り戻しでパースをもっとちゃんと読み込み、非常に納得的な(その分刺激的ではないかもしれないが)議論を展開しているようだ。とりわけ、本書では難しい箇所だが、パースの数学の真理についての二通りの解釈は極めて面白い。哲学の面白さをプラグマティズムから感じられたというのが、自分自身驚きで、パース、ジェイムズをもっと知りたいと思わされた。
推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

「少し前の」プラグマティズムの箇所で取り上げられるブランダムも最近翻訳が出た様子。
現代思想 2015年7月号 特集=いまなぜプラグマティズムか

現代思想 2015年7月号 特集=いまなぜプラグマティズムか

'16読書日記 2冊目『プラットフォーム』ミシェル・ウエルベック

この人は、イスラム蔑視や女性嫌悪といった言辞を弄するけれども、それと自己消滅への希望というものがどのように結びついていくのかやはりわからない。極端な性衝動・欲求、満足への期待と自己消滅への(ルサンチマン抜きでの)期待が同居しているのも不思議だ。あざとい部分もかなりあるし、訳者の解説で言われているように、ヒロイン役が今作ではかなり男性から見た理想の女性というような典型になってしまっている感じもする。が、読ませる。

'16読書日記 1冊目『供述によるとペレイラは…』アントニオ・タブッキ

供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

素晴らしい。

論文

NEU! 「カントの共和制の諸構想と代表の概念」『社会思想史研究』第40号、2016年、60-79頁。

〔社会思想史学会年報〕 社会思想史研究 No.40 [特集]〈市民社会〉を問い直す

〔社会思想史学会年報〕 社会思想史研究 No.40 [特集]〈市民社会〉を問い直す


「カントと許容法則の挑戦:どうでもよいこと・例外・暫定性」『法と哲学』創刊第1号、信山社、2015年、133-165頁。(pdfが開きます)
歴史と自然――カントの歴史論における政治的啓蒙」『相関社会科学』第23号、2014年、3-14頁。(pdfが開きます)
政治・道徳・怜悧――カントと執行する法論」『政治思想研究』第14号、2014年、356-384頁。
「カント歴史論における統治批判と自然概念――ヒューム・スミスとの比較を通して」『社会思想史研究』第38号、2014年、66-85頁。

'15読書日記43冊目 『戦争と平和の権利』リチャード・タック

戦争と平和の権利―政治思想と国際秩序:グロティウスからカントまで

戦争と平和の権利―政治思想と国際秩序:グロティウスからカントまで

人文主義と国家理性論の結びつきから、グロティウス・ホッブズ・プーフェンドルフ・ロック・ルソー・カントまで、自然法理論の生成と変容を描いている。ホッブズやロックらにおいて、自然状態における個人の状態から国家設立の正当性を論じるという議論があり、国際政治学の分野では、個人と国家をアナロジカルに捉えて国家間を自然状態として説明するというモデルが一般的である。しかしタックによれば、実は、自然状態的個人が発想された当初(グロティウス)、国家間の争いこそが自然状態の個人のモデルを提供していた、というものすごい逆転があった。グロティウスは国際法の父と認められているが、彼は人文主義の正戦論を受け継ぎつつそれを転換させ、国家にではなく(植民地会社の)個人にこそ自然状態では他人を懲罰する自然権があると主張し、当時のオランダの植民地支配を正当化した。タックの卓見は、こうした植民地支配を支えてきたイデオロギー自由主義自然法学と等根源的であるというものであり、それはグロティウスからホッブズ、ロックにいたるまで通底するものであるということを発見し、従来の思想史理解を転換(とまではいかないなら拡張)したことにある。こうしたモデルに対抗できたのは、皮肉なことに忘れ去られた思想家プーフェンドルフであった、という発見も本書の重要性を高めている。
本書の最後はカントについて触れられており、タックはカントの国際法理解を非常に冷めた目で見ている(あまりに冷めすぎているのではないかという気もしないではないが)。12月号の岩波『思想』の「思想の言葉」は柄谷行人が書いてる。カントの国際平和構想に触れて、その卓見を『普遍史の理念』に読み込むものである。この点は、タックが触れていてもおかしくないし、触れたほうが良かったところでもあるだろう。柄谷によれば

『永遠平和』はその後に大きな影響を与えた。が、最初にいったように、それは「平和論」に限定される傾向がある。実は、カントが『普遍史』〔『世界市民的見地による普遍史の理念』〕で指摘した問題は、平和論よりもむしろ革命論として重要なのである。というより、この二つは本来切り離せない問題なのだ。
〔...〕
カントが述べたのは、つぎのようなアンチノミーである。「完全な市民的体制」を創るような革命は一国だけでは不可能である。諸国家が連合する状態が先になければならない。一方、諸国家の連合が成立するためには、それぞれが「完全な市民的体制」となっていなければならない。

また、カントに関しては、勢力均衡の虚偽を暴露し、自由主義貿易あるいは「商業は習俗を温和にする」というような政治経済学的眼差しも目立つのだが、タックはあえてかそうでないのか、さほど触れていない。
というようなないものねだりはあるけれども、翻訳は非常にこなれていて読みやすいし、訳者注も充実していて勉強になる。
プーフェンドルフの義務論が(はやく)翻訳されるといいのになあ…

'15読書日記42冊目 『自分で考える勇気:カント哲学入門』御子柴善之

非常に良い入門書。カント哲学を身近な問題に引き付けつつ説明されているので、初学者でも入りやすい。三批判書だけでなく、『人倫の形而上学』や『永遠平和のために』も解説されていて、これからカントを読み始めようとする人には全体の見取り図として非常に役立つだろう。本書の後は、もう少し(あるいは大分?)難しいが、非常にこれまた好著である次を読み進めるといい。
カント入門 (ちくま新書)

カント入門 (ちくま新書)