カント「啓蒙とは何か」Was ist Aufklärungについての覚書

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

フーコーの「啓蒙とは何か」についての論文を読むことになったので、とりあえず本家カントの方を再読しようと思い立ち、読んでいたのですが。これがかなり面白い。というか、中々どうやら不穏なことを言っている気がする。最近はフーコーの博士論文(の副論文)であった『カントの人間学』を読んで訳わからねーとか思ってたりもしたんやけれど、カント自身の「啓蒙について」も相当分からない。

さらに言えば、僕は岩波の篠田英雄訳で読んだのですが、グーテンベルクプロジェクトのカントの原典を見ながら読んでいると、結構この訳が怪しげなんです。特に最後の最後は本当に、これでいいの!?って思ってしまう。


この論文は1784年、『純粋理性批判』の第一版(1781)とその第二版(1787)、『実践理性批判』(1788)の間に書かれたもので、雑誌『ベルリン月刊Die Berlinische Monatsschrift』に掲載されたものである。この小論文は、小さいながら啓蒙と自由、そして統治についての関係を濃密に織り込んでいる。一見、難解な用語も使われておらず、平易に見えるし、実際すらすらと読み飛ばしていくことも出来る。しかし、色々じっくり立ち止まって読んでいけば、どうやら相当曲者らしい、ということが分かるのだ。この論文が厄介なのは、こういうことが原因になっている。カントは啓蒙の概念と自由の密接な関係を熱っぽく説くのであるが、しかし、その一方で、啓蒙専制君主であるフリードリヒ二世を賞賛し、さらに「いくらでも議論せよ、そして服従せよ!」という謎めいた標語を提出しているのだ。自由と服従が成り立つというのか、それは矛盾しないのだろうか。これがこの論文におけるエッセンスであることは間違いがないが、このエッセンスは実に不可解なのだ。この点を踏まえなければ、おそらくこの論文をものにしたとは言えないのではないか。

***
カントによれば、啓蒙Aufklärungとは未成年状態から抜け出すことである。未成年状態にある人びとは、他人の指導がないと自分自身の悟性を使用できないという。彼ら/彼女らは、自分でものを考えようとしないで、専門家に思考を委ねてしまう。確かに、自分でものを考えることは、エネルギーの要ることだろう。専門家の言うとおりに暮らしていれば、非常に気楽であることはその通りだ。カントもそれを認めている。しかし、当然、それではカントは満足しない。周知の通り、『純粋理性批判』では、人間の自然的性質が、理性を使用しようと望むことだとだと定義されていた。啓蒙とは、人類の認識を拡張・進歩させることであり、それはこのような人間の自然的性質にほかならないのである。それゆえ、人類の啓蒙の進歩のために、人々は未成年状態から抜け出さねばならない、とされるのだ。

では、啓蒙とは、未成年状態から抜け出すとは、どういうことなのか。それは、敢えて自分自身の悟性を使用する勇気を持つことである。有名な標語、Sapere aude!はすなわち、「敢えて賢かれ!」である。一度未成年状態に慣れてしまえば、自分でものを考えることはしんどいことだ。それゆえに、「敢えて」という勇気が必要になる。しかし、このような勇気を個人一人一人に持たせるにはどうすればいいのだろうか。個人の啓蒙は可能なのだろうか。ここにおいて、カントは個人の啓蒙よりも民衆の啓蒙のほうが実現可能性が高いのだと言う。しかし、民衆の啓蒙と個人の啓蒙は一体何が違うのだろうか。

あえて嫌な書き方をすれば、カントはここで、ある意味で「エリート主義」、上からの啓蒙の立場を取っているのだと言える。つまり、個人の啓蒙は各個人一人一人の勇気にゆだねられるのだが、一方、カントが語る民衆の啓蒙の担い手は、公職にある人なのである。カントはその人らを後見人Vormündernと呼ぶ。すなわち、公職にいる人々は、民衆にとっての保護者、後見人なのだというのである。18世紀当時のことを考えても良いし、今現在のことを考えても良い。公職者=専門家は、民衆の知を担う存在である。彼らは民衆が専門的なことについて考え、議論する手間を省いてくれる。しかし、逆説的なことに、後見人としての彼らの存在は、民衆の未成年状態を導き出すのではなかったか。どうすれば、後見人=公職者による、民衆の啓蒙は可能なのか。

それは、カントによれば、公職にある人々が、自らの理性を公的に使用することで可能になる。理性を公的/私的に語るとは、一体何を意味するのか。カントの公私区分は特殊である。理性の公的使用öffentlichen Gebrauch der Vernunftとは、簡単に言えば、自分の公的な立場に囚われずに、普遍的な立場にたって、理性的に語るということである。全公共体(世界公民的社会Weltbürgergesellschaft)の一員として、すべての人々に対して、自らの理性を行使してえられた思考を提示することが、理性の公的な使用なのだ。その語り方は、カントによれば、あたかも学者として一般読者全体に対するかのようにに語る、ということである。すなわち、ここにおいて理性を公的に使用する者は、新たな真理=知を世界にもたらす者として位置づけられているのだ。

逆に、理性の私的使用とは、自分の公的な立場においてのみ、すなわち、自分が属する公共体の見解・命令・利害と一致するように、理性的に語るということである。「議論するな、服従せよ!」、公共体の方針に添う通りにお前の立場をわきまえて語れ、こういったことがここでは命令されるに違いない。というより、公的な立場をわきまえて理性的に語る、ということは、一般的にはそういうことを意味するだろう。ここがカントの特殊な公私の区分の肝になる。理性の私的利用は、決して、自分個人の利害に逢着するのではなく、個人の包摂される(全公共体から見たら)特殊な公共体の利害に合致せねばならないのだ。

さらに、カントの議論には、まだもうひとひねりある。自分の公的な立場に縛り付けられているのであれば、公職者はいつまでたっても民衆の後見人として、民衆を未成年状態の軛につなぐであろう。問題は、自分の(特殊に)公的な立場を超えて、(普遍的に)公的な立場において、理性的に語りえるか、ということなのだ。それゆえ、啓蒙の可能性の核心は、人が、理性の私的使用に限定されず、というよりむしろ、私的使用に制限を加えて、世界市民の一員として、理性を公的=普遍的に用いる自由を持つ、というところに存するのである。

この自由は、実践理性批判における自由=自律とも、少し異なるように思われる。つまり、この自由は、公共体の支配の従属から自由になり、普遍的な立場にたって何事かを理性的に語る自由なのだ。ここでは、あきらかに支配から自由であることが望まれるに違いない。強制支配の下で、人はいかように自らの公的立場と異なる立場から議論できるだろうか。それゆえ、啓蒙を人類の自然的性質であり、進歩の要であることを理解する君主には、国民の啓蒙を妨げるような決定をしない、ということこそが求められることになる。君主はある文化・芸術・宗教などを人々に押し付けるのではなく、人々の自由に任せることを、その義務として持つのである。したがって、君主の義務は、あくまで消極的なものに留まる。

ところで、カントは1784年当時のプロイセンを振り返り、果たして今は啓蒙された時代なのか、と自問している。答えは、今は啓蒙の時代なのであり、啓蒙が完了した時代ではない、というものである。言い換えれば、啓蒙は現在進行中なのだ。当時のドイツでは、人々が未成年状態から脱出することを妨げるような障害が少しずつ撤廃されつつあり、文化や芸術だけでなく宗教においても、人びとが自由に議論しうる土壌が育ちつつある、とカントは見ていた。ただ、カントはこの現状にも満足しない。文化・芸術・宗教に留まらず、「立法に関しても国民が彼ら自身の理性を公的に使用」できるようになれば、なお良いのだが、と付け加えるのだ。こうして、カントは、当時のプロイセンに啓蒙の微光を明らかに見出し、それに期待を寄せている。もちろん、プロイセンの啓蒙は、フリードリヒ二世の寛容さによるものが大きいことをわれわれは知っている。フリードリヒ大王は、周知の通り啓蒙専制君主として誉れ高く、カントはその寛容さをこの小さな論文の中で精一杯に称えている。

……と、ここまでは、全く納得のいく議論が一見展開されているように見える。理性の公的使用の自由、これこそが啓蒙の可能性を開くのであり、それは今や、フリードリヒの下で開花するかに見える。しかし、カントはフリードリヒ大王の素晴らしさに触れた後、驚くようなことを言い放つ。

自分自身がすでに啓蒙されている[…]君主にして初めて、「君達はいくらでも、また何ごとについても意のままに論議せよ、ただし服従せよ!」と言明し得るのである(岩波版・p18)

カントは、理性を公的に使用する「自由」が、すなわち、公共体の強制支配から逃れて、普遍的な立場で理性的に語る「自由」こそが、啓蒙の可能性の核心にある、と論じたのではなかったか。議論せよ、しかし服従せよ、とは何を意味するのだろうか。ここにおいて、この小さな論文の明瞭さは、すっかり影を潜め謎めいてしまう。結局カントは啓蒙専制君主の庇護の下でしか、理性の公的使用は不可能だと認めているだけではないのか。フリードリヒ大王の下、確かに、プロイセン国内での小さな公共体では、理性の公的使用が可能になったのかもしれない。しかし、一国という単位で見れば、明らかにそれは絶対王政なのであって、人びとはいくら寛容な君主とはいえ、その君主に「服従」しなければならないではないか。いったい、カントの啓蒙が指す「普遍性」はどの公準に基づいたものなのか。それはプロイセンに限定された普遍性だったのか。

しかし、われわれは、ただカントの〈戦略〉の上で、踊らされているに過ぎないのだ。カントはこの論文の最後になって、なおいっそう不可解な逆説を唱えている。この逆説が言わんとするところを見ることによって、カントの〈戦略〉とでも言うべき、というより〈アジテーション〉とでも言うべき、論述が明らかになるだろう。とりあえず、自由な議論と服従をめぐる先の問いは積み残して置き、その逆説を検討することにしよう。カントは、実に興味深い逆説を論文の最後に、ごく軽く書き記している。

公民的自由bürgerlicher Freiheitがよりいっそう増えることによって、国民の精神の自由Freiheit des Geistesに利するように見えるかもしれないが、しかし、前者は後者に克服しがたい制限を与えることになる。むしろ公民的自由が少ないほうが、かえって精神の自由に、力を尽くして自らを拡張すべき余地を与えるのである。(p19 訳語は多少変更)

ここにおいて、精神の自由とは、自由に思考しようとする精神を指している。これはまさに啓蒙の核心、自らの悟性をあえて使用するということにほかならない。そして、公民的自由とは、先述したように、立法行為に国民が参加し、そこで国民が自らの理性を公的に使用できるようになる事態であろう。振り返っておけば、カントは君主の消極的な義務として、文化や芸術、宗教だけにとどまらず、立法についても国民に「自由」を与えるべきだ、と述べていた。この逆説、すなわち立法行為に参加できる公民的自由の増大が、啓蒙の破綻を招く、という逆説は、一体どうして導かれるのだろうか。さらに、問いを先送りにして、カントが書いているところを、論文の続きを見てみよう。

ところで自然が、硬い殻*1の中で非常に丁寧に育んでいる胚――自由に思考しようとする心的傾向と人間の使命感という胚――を成熟させると、今度はこれが次第に国民の意識に作用を及ぼし(これによって国民は、行動の自由Freiheit zu handelnが徐々に可能になる)、ついには統治の原則にまで影響を与えるのである。(p19、訳文はかなり改変)

ここでもカントは奇妙すぎることを言ってのける。硬い殻の中で育まれた、啓蒙の胚――自由に思考し認識を拡張しようとする人間の使命――が、国民の意識に影響を与え、統治の原則をも変えてしまう、というのだ。これは一体どういうことなのだろうか。一方では、公民的自由が啓蒙を挫くという逆説があり、他方では、啓蒙によって統治の原則が変革されるという。とはいえ、とりあえず見ておかねばならないのは、次のことである。すなわち、統治の原則に影響を与え変革が起きる、ということは具体的に何を指すのか。それは明らかである。それは、人民への立法権-参政権、すなわち公民的自由の付与である。カントが、啓蒙君主の義務に付け加えるべきものとして、立法の自由、すなわち政治への自由・参政権をあげていたことを思い出せば良い。十分に啓蒙された君主であれば、民衆に公民的自由(立法権)を与えたとしても、国家の秩序と統一が揺るがされないことを知っているであろう。

しかし、注意しなければならないのは、カントがここで言っているのは、啓蒙の成熟が、統治の原則を変化させるということであり、裏を返せば、啓蒙が未熟であれば、それを変化させることはできない、ということである。このことを正確に理解すれば、先ほど疑問に残しておいたパラドックスも理解可能になる。すなわち、啓蒙が未熟な内に、公民的自由=立法権が人民に与えられてしまっては、そのことが、啓蒙が成熟するのに「乗り越えがたい障害」となってしまうばかりか、統治原則の変化は決して起こりえないのだ。ここで重要なことは、公民的自由⇒啓蒙の成熟、という順番ではなく、啓蒙の成熟⇒公民的自由という順番をカントが想定している、ということを把握することである。未成年状態にある人びとに、公民的自由が与えられた場合を考えてみれば良い。確かに、後見人=一部の(啓蒙された)エリート市民の立法権の行使は存在する。しかし、そのほかの大多数の未成年状態にある人びとは、悟性を使用することもないまま、エリート市民に政治を任せて安住するだろう。決して、「民衆」の啓蒙は完成しない。このような一種の寡頭制は、啓蒙専制君主の支配、あるいはもっと言えば公職者の管理となんら変わらない。

それゆえ、カントは一見奇妙に見えるが、正しくも、公民的自由の程度が低いほうが、啓蒙にとっては都合がよい、と述べるのである。プロイセンは、いまだ啓蒙の途上である、ということを思い出してほしい。そこにおいて公民的自由を、仮にあたえたとしても、それは形式的なものに成り下がってしまうであろう。とはいえ、われわれは、ほのめかしながらもあえて明言してこなかったことを、ここで急いで明らかにしなければならない。それは、カントが言う統治原則への影響・変革とは、すなわち、〈革命〉にほかならない、ということである。啓蒙専制君主制という統治原則において、人民に公民的自由を与えると言うことは、すなわち、君主制から共和制への移行であるだろう。カントは革命を望んでいるのだ! 

しかし、われわれはこういった性急な結論に急いで付け加えねばならない。ようやく、この小論文を謎に包むカントの言明に立ち返るべきときが、来たのだ。それは、すなわち、カントが「意のままに議論せよ、ただし服従せよ!」と啓蒙君主に言うことを許したのはなぜか、ということであった。いまや、このことは明らかである。それは、率直に言えば、カントの革命への周到な〈戦略〉なのだ。啓蒙途上にあり、精神の自由を持たない民衆に、形式上の公民的自由を与えただけでは、啓蒙は完成しないばかりか、単に絶対王政という統治原則に、人民主権の皮を被せただけに過ぎなくなってしまう。真に統治原則を変革され、人民が公民的自由を享受できるためには、まずは人民が十分に啓蒙されねばならない――少なくとも啓蒙専制君主と同程度には。それは、立法について、理性を公的に使用できるまでに高められた啓蒙でなければならないはずだ。

しかし、その啓蒙は当時のプロイセンにあって、どのように可能なのだろうか。それはまさに啓蒙専制君主の庇護の下で、理性的な議論を行うことによってに、ほかならない。だからカントは自信を持って、「意のままに議論せよ、ただし服従せよ!」という一見矛盾するかに見える標語を提示できたのだ。プロイセンにおいては、啓蒙専制君主の下でしか人々は、十分に啓蒙されえないだろう。しかし啓蒙君主の下で啓蒙が熟しきったそのとき、フランス革命のような暴力革命ではなく、啓蒙の理性が弁証法的展開を経て、君主制を掘り崩し、公民的自由が人民に顕現するのだ。カントは実に周到で巧みな〈革命〉家であったと言えるのではないか。一見、啓蒙専制君主を賞賛し、服従を約束しながらも、啓蒙の理性の弁証法的展開による〈革命〉を導いているのだから。

*1:岩波文庫の篠田英雄訳では、ここは「公民的自由という硬い殻」という風に訳されている。しかし、原文では、ただ「dieser harten Hülle」だけであり、篠田はdieserを公民的自由という風に捉えているが、これは致命的な誤訳であろう。硬い殻に包まれているのは、啓蒙の実現であるということは、本論文を貫くカントの問題意識から明らかである。