'11読書日記4冊目 『カントの批判哲学』ジル・ドゥルーズ

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

237p
総計1167p
カントの三批判書を体系的に纏め上げた良書。國分功一郎さんの訳もわかりやすいし、なにより解説が詳細かつ明快で、ドゥルーズ早分かりともなっているのだ。かなりおすすめ。
主体/客体の表象に関して、カントは三つの能力――認識・欲求・感情――とそれに対応する表象の源泉――悟性・理性・構想力――を提示した。本書でドゥルーズが行おうとしているのは、こうした三つの能力がどのように調和しているのかを見ることである。そしてこの基底的な調和を考察したものとして『判断力批判』を読むのだ。
結論から先に言えば、カントの中では、構想力が悟性/理性と調和・一致することが基底にあるからこそ、悟性と理性の調和が可能になっている。実際、『純粋理性批判』と『実践―』では、理性の超越的使用が焦点となっていた。認識において、理性は悟性と調和するために自らの超越的な素質を制御して悟性に身を委ねなければならない。他方、欲求能力、とりわけ実践道徳においては、悟性的なものは(それが感性的直観であれ経験的なものであれ)制御されて理性の超越的使用が全面的に展開されねばならない。すなわち、悟性と理性という二つの区別された能力が、認識と欲求の局面ごとに交代してせり出す仕組みになっているのだ。カント哲学の独創的な点は、人間の能力の本性上の差異を明確に規定した点にある。だが、こうして明確に違い付けられた能力は、人間の中でどのように調和しているのか。
ドゥルーズによれば、この問題を解決するためにカントが持ち出すのが、諸能力の一致という意味での「共通感覚」である。カントは『判断力批判』のなかで、共通感覚Gemeinsinnについて「われわれの認識能力の自由な遊びから生じる結果」だと言っている。

与えられた表象が構想力をはたらかせると、構想力は〔直観における〕多様なものをまとめ、次に構想力が悟性をはたらかせると、悟性はこの多様なものを概念によって統一するという具合である。しかし二つの認識能力の間に成立するかかる調和は、与えられる対象が異なるにつれてそれぞれ異なる比例をもつことになる。それにもかかわらず特に一種の調和が存しなければならない。それは――かかる内的関係が〔…〕与えられた対象の認識一般を成立させるために双方の認識能力にとって最も有利であるような調和にほかならない。(カント『判断力批判』第二十節)

だが、これは再び問いを作り出すだろう。ドゥルーズは指摘する。

カントは恐るべき難題に突き当たっているように思われる。われわれは、カントが主体と客体の間の予定調和〔独断論〕という考えを拒否していたことを見た。彼は、客体の主体自身に対する必然的従属という原則をその代わりに置いた。だが、単に、本性において互いに異なる主体の諸能力の水準に移されたというだけのことで、カントは調和という考えを取り戻してしまっているのではないだろうか?(p51)

カントは、諸能力の一致は、(関係を規定するのが、この能力であったり、あの能力であったりするのに応じて)様々な釣り合いにおいて可能であると言うのである。しかし、既に規定されている一つの関係ないし一致の観点に立つそのたびごとに、共通感覚が、われわれにとって、それ以上遡ることのできない一種のア・プリオリな事実のように思われるのは避けがたいことである。(pp52-53)

カントプロパーの人らから見れば、このあたりの議論はどううつるのかはよく分からないが、とにかく、ドゥルーズは本書で、この共通感覚の発生をたどることになる。ドゥルーズによれば、それは(これまでにも何度か引いた)『判断力批判』の中で、特に自然美についての議論の中に見出されるものだという。自然美は、どのようにして「美」たりえるのか。それは、自然の何らかの(人間にはア・プリオリに理解できない)形式が、悟性と構想力の一致を「偶然」達成することによって見出されるものだ。ここに、ドゥルーズは、カントの三つの能力の一致を根底で支えている偶然性を見るのである。

僕にとっては、自然の概念をドゥルーズが追いかけつつあるまま本書を終えたことがもどかしいし、解説で國分功一郎さんも言っている通り、カントの「自然の意図」をもう少し読み込みたいところである。