3-27 鷲田清一の卒業式式辞、あるいは大震災の偶有性

晴れているのに風は冷たい。朝方、下の階に住む人の客人のバイクが騒音を立てて走り去っていく。起き抜けに、途中まで見ていた『未来世紀ブラジル』を見終える。家でグズグズしたり、ふとしたことで頭が空っぽになって、そういうときは湯船に使って無為な時間を過ごしている。そうしても仕方ないと思って、買い物に。無為に留まっていることの難しさ。
スーパーでは水は売り切れていて、せっかくジャックダニエルを飲もうとしてるのに、トニックウォーターさえ品薄である。レタスとトマトとドレッシングを買う。シャンプーも買う。細々とした日用品を買うことは楽しいけれど、これが誰か人のためにせざるを得ないことになってしまうとそうでもないのかもしれない。
モスバーガー。いつも喫煙席でコーヒーだけを飲んでいるおじさんは、韓国語と日本語のちゃんぽんで、どうやらキャバ嬢らしき人に電話をしている。これもいつものことだ。テリヤキバーガーをもじゃもじゃと食べて、カントを読み読み。

地震で大学入学直前だった男の子が、家族を失ってしまいこれからどうなるか分からなくなってしまったというニュースを読む。最初は被害の物理的な大きさを伝えるニュースばかりだったけれど、最近は次第に被害者の心理的な面がニュースの記事になっている。カタルシス消費してしまいそうで、この手のニュースを読むのには躊躇いもあるけれど、つい読みいって感情が揺さぶられる。
阪大総長の鷲田清一が、このまえの卒業式で話した式辞(pdf)がアップされていた。鷲田さんは地震のことから式辞を始める。そして阪神淡路大震災の経験にも触れつつ、このように言う。

このたびの地震から2週間経ったいまも、電源を落とした避難所、あるいは孤立した民家で異様なほどに静かな漆黒の夜を迎えておられる人たち、暗闇のなかで「命がけ」の冷却活動にあたっておられる作業員たち、自身も被災しながら夜を徹して救援活動や医療活動にあたっておられる方々、その人たちの心持ちを察すると、いまわたしたちがこうした照明の下でみなさんの卒業と修了とをともに讃えあえることが申し訳なく思えてきます。

鷲田さんの「申し訳なさ」は、僕が思うに「不謹慎」といったり祝典を自粛したりするようなメンタリティとはちょっと違う。鷲田さんは「被災地のひとたちと、被災の全貌を知ることができずに遠くから案じるだけのわたしたちのあいだには、どうしようもない隔たり」があると言う。その隔たりとは、例えば、被災現場でインタビューする放送記者と被災者の間にあるものだ。この隔たりの向こう側に、被災した人たちがいて、こちら側に被災しなかった僕らがいる。この隔たり、落差は、震災によって生み出されてしまったものだ。それは乗り越え難く僕らの間に横たわっている。おそらく、ここまでの認識なら、僕らも鷲田さんと同様に持っているだろう。鷲田さんも僕らも、被災者と非被災者との間に断絶があり、その断絶のこちら側に居るということ自体に倫理的悪などを見ているのではない。だが、鷲田さんは、ここからもう一歩進んでこのように言う。

別の言い方をするなら、被災地にあっても、被災地から遠く離れていても、いま、「生き残った」という思いに浸されている人はけっして少なくないでしょう。「生き延びた」ではなく「生き残った」というこの感覚にはどこか、被災しなかったこと、あるいはそれがごく少なかったことへの申し訳のなさのようなもの、罪悪感のようなものがつきまといます。こういう隔たりはだれもすぐには埋められません。すぐには超えられません。

僕としては、鷲田さんのこのような少し過剰に思えるかもしれない〈罪悪感〉に割に共感するが、もしかすると多くの人はこうした〈罪悪感〉に眉をひそめるかもしれない。鷲田さんは、隔たりのこちら側にいる私たちにも「生き延びた」ではなく「生き残った」という思いがある、と言う。おそらくここにも違和感を感じるひとが多いのではないだろうか。「生き延びた」とも思わないし、まして「生き残った」なんて思わない、そのような人もいるかも知れない。
ここで、突飛と思えるかもしれない喩え――とはいえある種の人たちはこの喩えで今回の地震を見ているのだが――を出して考えてみたい。それは、第二次世界大戦の後の日本である。このとき戦死したり、焼夷弾に焼かれたり、原爆の圏内にいたりするのではなかった日本人なら、どう感じただろうか。きっと当時の人たちは「生き延びた」と感じただろうし、さらに言えば、あそこで死んだ人たちのおかげで「生き残った」とも感じただろう。きっとそこには、死者と存在を共にする感覚があっただろう。もしかしたら自分もあのように無残な死を遂げていたのかもしれない、と思っただろう。
しかし、おそらく、今回の地震の場合、東北から離れていくにつれ、こういう〈罪悪感〉は少なくなっていくのではないだろうか。僕はまだ東京にいて、大きな地震の揺れを体験しているから、多かれ少なかれ〈罪悪感〉めいたものを感じてしまう。けれど、大阪や九州や沖縄の人たちが、(もちろんこのように思う人も多くいるだろうが)被災者を犠牲にして自分が「生き残った」と感じることは少ないだろう。
「生き残ってしまった」罪悪感は、被災した人たちの間には存在するだろう。すぐ横で木にしがみついていた人が、一瞬後にはもう流されて、気づけば自分だけが生き残っている、このような記事をたくさん読むことができる。だが、震災から遠く離れた僕らには、「生き残った」「生き延びた」という感覚が薄い。
第二次世界大戦の後と、今回の大震災の間にある差異はなんだろうか。一方では、日本全土でかなり多くの人がきっと「生き残ってしまった」という罪悪感を感じたであろうが、他方はそうではない。しかし、どちらもまれに見る災厄、災害にほかならないのだ。両者に横たわる差異とは何なのか。簡単な答えは、こうである。戦争は日本全土に被害者を出したのであり、今回は東北に限られている、被害者との距離が違う。確かに、戦争では周りの人がどんどん死んでいくということが日本全土であったろう。だが、戦後「生き残った」罪悪感に見舞われたのは、身近な人が戦死してしまったことだけには由来しまい。むしろ、見も知らぬ兵士や被爆者に対して罪悪感を覚えたであろうし、特攻隊やシベリア抑留の人たちについてもそうだ。つまり、戦争において〈罪悪感〉は身近な人が自分の代わりに死んだと感じることで生じているのではなく、それどころか見も知らぬ遠い人が死んだことに対してもはっきりと〈罪悪感〉を生じさせている。
はっきり言おう。戦争のときにおいては、確かに「日本」という国民国家(ネーション=ステイト)の共同性が立ち現れていたのであり、その共同体の中にあっては、その成員同士の間には――成員同士の物理的距離がどれだけ離れていたとしても――はっきりと共同的な紐帯・連帯が見られていた(もちろんそこから排除されている人もいた)。だが、今回の大地震において、もはや「日本」という共同体の中で生じる成員同士の紐帯や連帯は失効している(とまでは言わずとも明らかに弱体化している)ということが、明らかになってしまったのである。
鷲田さんの式辞は、共同体の話をめぐって続けられている。リーダーシップを取ることや実際に具体的に被災者の人のために何かをしてあげること以外に、ただ「私はあなたを見ています」ということ、ただ被災者の人たちと共に生きていること、彼/彼女らと共-存在copresenceしていること、これだけでも、というよりむしろこれこそが、こちら側とあちら側を隔てる隔たりを架橋する、というのだ。だが、おそらく、鷲田さんには、気づきつつも気づいていないことがある。僕らはもはや、かつて戦争の時にできたように簡単には〈罪悪感〉を持つことができず、共-存在することもできないのだ。僕らは、端的に、「私もあのようでありえたのだ」という偶然的な感覚(偶有性)を持つことができないでいる。
それゆえ、こちら側とあちら側を隔てる溝が顕にする、本当の課題はこの偶有性をいかに取り戻すのかということなのだ。あちこちで、安易に「日本」というマジックワードが囁かれ、その共同性を復活させようとする試みが見られる。僕らは、しかし、そのやり方が本当に適切なのかどうか、それをも考え続けないといけない。

いや、ともかくもすぐに寄付をしよう。それからだ。