'14読書日記53冊目 『代表制という思想』早川誠

代表制という思想 (選書“風のビブリオ”)

代表制という思想 (選書“風のビブリオ”)

代表制民主主義は、日本では(そして世界でも)近年もっぱら評判が良くない。議会政治の腐敗、機能停止、決定力の欠如。様々な問題が一般に指摘されているが、核になるのはそれがもはや民意を正しく反映していない、というものである。そもそもが教科書的理解によれば、代表制というのは直接民主制が規模的に不可能であるために次善の策として選択されたものだといわれることが多い。昨今の政治理論においても、代表制の機能停止を補い、民意を正しく反映させるために一方で首相公選制のように直接人民が一国のトップを選択するようにする方法が、他方では熟議民主主義のように市民が直接議論をし、機能停止している代表制議会にその議論の結果を正しき民意として伝えるという方法が、熱を持って議論されてきた。
本書は、そうした批判にさらされている代表制を、もう一度根本から考え直すものである。そしてそのうえで、代表制を次善の策として捉えるのではなく、より積極的にその可能性の中心を抉り出そうとする(以下で僕が書くような抽象的な話ばかりではなくて、日本政治の実情をふまえた具体的な記述がなされるのも本書の稀有な魅力であり、説得力がある)。
代表制と呼ばれる場合、現在では立法府を意味することがもっぱらであるのに対して、思想史的には様々な形で代表性が言われてきた。ホッブズにおいては国家は社会契約の当事者を代表するものであったし、ルソーにおいては行政府が一般意志を代表して執行するものであった。また、現代的な意味においても、代表概念自体が二重の意味を持つ。つまり、代表は一方で、代理・委託というような意味を持つとともに、他方である集団のなかで傑出しているというような意味をも持つ。前者の意味では、代表者は代表されるものをそっくり反映していなければならない。後者の意味では、代表者は代表されるものから独立にその能力が秀でているという点において自由に振る舞うことができる。
熟議民主主義や首相公選制は、代表概念をもっぱら前者の意味で捉え、民意をより正しく反映させるために自らの利点をアピールしている。両者はどちらとも、代表制が民意から切り離されており、切り離されているからこそ民意を正しく反映することができないので、再び何らかの仕方で直接生の民意を捉えるような仕組みを考えよう、という方向において共通している。しかし、これらに対して筆者は生の民意、あるいはジャーゴンを使って言えば、一般意志がそのままのしかたで純粋に現れるというようなことが可能なのか、と問い返す。そうした直接的な民意、純粋な一般意志なるものは、何らかの制度によって形成されうるようなものではないのか、というのだ。この問い返しは非常に重要に思われる。筆者は論じてはいないが、この議論はデリダの議論を想起させる。エクリチュールは意識の直接的な現前からは常に立ち遅れ、常にその直接の意味を捉え損なうように見えるが、しかしそのような直接的な現前は、エクリチュールがあるからこそ事後的に見いだされるようなものにすぎないのではないか。筆者がこの議論を意識しているのかどうかは分からないし、本書でレレヴァントなことでもないような気もするのだが、代表=再現前ということを考えるときに重要な切り口になるように思う。筆者はこうしたポストモダンまがいの議論に陥らず、むしろ実際の問題として、一枚岩の民意、直接的な人民意志のようなものが、再帰的近代においては不可能になっているということを指摘している。利益団体のようなものもほぼ壊滅状態にあり、意見は多様化し、社会は複雑化の極致にあってそれぞれの案件について人々は多様すぎるほどの意見をもつ。何らかの制度を通じてそれぞれの政治的問題に関する人民の意志が形成されるしかないのであり、代表するものと代表される人民の意志のズレは当然に出てくるものである。首相公選制においても選ばれた首相が人民意志全てを反映しているわけではないし、しばしば少数派の意志は切り捨てられてしまいがちである。熟議民主主義においても、熟議が制度化されてしまうのであればなんらかの代表(無作為抽出法であれなんであれ)を伴わざるをえないだろうし、仮に市井の人々すべてが熟議を行うようになったとしても人々がどの程度熟議によって選好を変容させるのかは制度的保障を持たない。
筆者はこれに対して、むしろこうした代表するものとされるものの必然的なズレこそが、代表制の可能性の中心にあるのだと主張する。つまり、代表制は生の直接的な民意のようなものから意図的に距離を置くということに制度上の利点があるとされるのだ。議論の行程は、政治思想史上非常に古典的なと言ってもよい視角からなされている。それは、混合政体論という発想である。アリストテレスは理想的な政体として貴族政と民主政の混合を主張していたが、この意味での混合政体である。選挙は、人民があまねく関わるという意味で民主政的要素を持ちつつ、しかし何らかの基準において優れているとして誰かを選出する限りで貴族政的要素を持っている。ある面では、代表制は民主主義と言いながら純粋な民主主義ではない政治制度であり、言わばその不純さが批判されてきたのだったが、筆者はむしろその混交性にこそを評価しようとするのである。代表制の危機と呼ばれるのは、本当に政治家が腐敗しているということもあるだろうが、それ以上に現代社会における再帰性グローバル化、極度の個人化と分断化といった代議制外の要因が大きいだろう。代議制は少なくともこれらの要因に対処するような制度的確信をいまだ持たない。しかし、代表制を混合政体として、あるいは代表するものとされるもののズレを活かした制度として捉えることで、これまでとは違った視点からそれを眺められるのではないかと筆者は提案する。代表制を人民意志の反映装置としてのみ考えるのではなく、むしろ人民の判断に働きかけるものとしてそれを捉えるのだ。

代表制の特質は、そして代表制の意義は、直接民主制と比較して民意を反映しないことにあるのであり、民意を反映しないことによって民主主義を活性化させることにあるのである。

議会は民意から完全に解き放たれるのではないが、政治家が民意を汲み取りつつ自ら総合的に判断をし、その判断を戦わせる場、意見の多様性が現れる場として機能しなければならない。他方で、市民は議会が民意を正しく反映しているのかということに注視するのではなく、議会において現れた意見の多様性をふまえたうえで自らの意志との齟齬について判断しなければならない。この意味で、代表議会が市民間の熟議の先行モデルとなるが、市民間の熟議は再び代表制における議論のモデルを形成する。議会と市民が、代表するものとされるものが、切断されながらもつながっているという関係において、両者の循環を考察することができるのである。次の言葉は、代表制の擁護の側から見た、市民の政治参加の必要性への言及として非常に興味深い。

選挙が混合政体のような働きをするということの意味は、優れた者を選出するという貴族政的な機能を、有権者の判断によって民主的にコントロールすることができるということなのだ。逆にいえば、市民がコントロールしようとしないのならば、選挙という制度それ自体は貴族政的な効果を伴いつつ作動する。したがって、代表制は、市民参加を不要としない。逆に、市民の参加こそ、代表制の生命線である。良くも悪くも、市民の政治への関与が、代表制民主主義の性格を変えてしまうのである。

宇野重規先生のこちらも「代表制の政治思想史 : 三つの危機を中心に」http://ci.nii.ac.jp/naid/110000465004

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