09読書日記25冊目 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

高3くらいのときに始めて名前を聞いて以来、ずっと読もうと思ってたんやけど、やっと読んだ。大澤先生が『虚構の時代の果て』で理論的説明を援用していたので、分かりやすかった。

プロテスタント(改革派)の、特にカルヴァン派エートスこそが、弁証法的展開を持ちながら合理性を担保にした近代特有の資本主義の精神へと転化していった。キリスト教会にもともと存した世俗外的禁欲が、ルターの》Beruf《天職の概念と、カルヴァンの予定説に接合し、カルヴィニズムにおいて独特の世俗内的禁欲=行為による救済の確証へと精神的跳梁を見せる。特に興味深いのは、世俗内的禁欲において、自らが恩恵に浴している人間であるとする救済の確証と、一時期の感情的な行為ではなく合理的行為をなすという行為主義のレベルが同時にエートスとして存在しているということである。前者の救済の確証は先見的な次元に位置するが、後者の行為の段階は事後的な次元にあるのだ。つまり、神による恩恵を先取りしつつ、その恩恵にすがりつくという両輪こそが、近代特有の合理的行為を生み出したのである。

フーコーは『監獄の誕生』において、一望監視方式の監獄こそが、近代人における規範の内面化を産むモティーフであることを示したが、ウェーバーにおいて、カルヴィニズムの宗教的教育がその内実において神の超越性の絶対信仰を、信仰者に内面転化したということを言明しており、いわばフーコーの近代的権力のあり方を先取りしていたといえる。神の超越性の絶対信仰とは、神が触知しえぬものであり、信仰者はその恩恵に浴しているかどうかは本質的に分かりえないということを意味する。カトリックなどの伝統派が裁判や懺悔をその教義において持ちつつ、神の救済を認めていたのに対して、カルヴァニズムは被造物者が神化することを否定するのである。神の救済を確証されているものは、冒険的投機や貧乏、奢侈からは程遠いところに身をおくことで、その確証が本当に実現される位相にいるということを確信できる。すなわち、ここにはアイデンティティの獲得にも似た、差別化としての救済の確証が見られるのである。つまり、ある規範(プロテスタンティズムエートス)内で行為するもの/せざる者という区別こそが、言うならば救済の確証を生んでいるのである。その差別は後々に本来あった宗教的倫理が形骸化し忘れられたところでは、資本主義的価値を享受するもの/せざるものという冷戦期の対立構図へと変化していき、ポスト近代にあっては、資本主義的価値の勝利者/敗残者という区別とともに資本主義的価値=相対価値の翼賛〜消費へと移動していくことになる。

412p
総計8852p