09読書日記57冊目 『憂い顔の童子』大江健三郎

憂い顔の童子

憂い顔の童子

おかしな二人組pseudo-couple」三部作の、二作目をようやく読み終えた。大江の地元・松山の神話などが絡みだすと、ちょっと読むのがしんどくなりはするものの、戯画化された自画像をあたかもそれが現実であるかのように語る手法は顕在である。一作目『取り替え子』、三作目『さようなら、私の本よ!』に比すれば、精度も衝撃も落ちる。というのも、文学的な技法による新奇性が一番際立っているのが本作だからである。

この小説『憂い顔の童子』の核心的なテーマは物語・歴史・未来である。物語は、主人公・古義人の生涯においてくすぶり続けた少年時の「アレ」をめぐる記憶と、松山に伝わり続ける土着の伝承的人物「童子」をめぐって進められる。何度も「童子」の伝承は引き合いに出されるし、最後では「アレ」にまつわる主人公の記憶さえ、揺らぎ始めるのである。老年期にある古義人は、同時に自らの最期についてもおのずと意識せずにはいられない。つまり、過去と未来(自分が死んだ後の世界)とが複合的に配置されている小説なのである。もちろんそのような中心的な流れに併走するように『ドン・キホーテ』になぞらえて宛がわれていく登場人物たちがおり、『桃太郎』の挿話があり、アナール学派の名前が出てきたり、ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』がひかれていたりもする。だが、その中でも特に興味深いのが、小説の前半で触れられる「夢の通い路」と「夢の浮き橋」の対応である。夢とは、過去・現在・未来のどこへでも現れると言う意味で<現在時>を構成するに至る。「童子」はそのような夢の橋を渡って、様々なところへと、「新しい人」として現れるのだ。


物語は、古義人の「自分の木のルール」に従うように(むしろ時間に対して開かれるように)終末を迎える。土地に生まれ育って死ぬ者らは森のなかにそれぞれ「自分の木」を持っており、死んだ後に魂が肉体を離れて、「自分の木」の根方にとどまって、新しく生まれる赤ん坊の肉体に入るのを待っている。「自分の木」の下では、子供の自分が歳をとった自分に会うこともあるのだと言う。そこでは、自分の老い先を知っている老年の自分は、子供の自分にそのような未来の行き先を知らせてはならない、というルールがあるのだという。古義人が、終章に至って、意識不明の重態に陥ったとき、彼には優しく語り掛けるローズさんの言葉が痛ましい。彼の魂は、童子のように夢の浮橋をわたって、さまざまなところへ、〈今〉へ配分される。その魂は、「現在の時だけでなく、過去の時でもなく、未来のときもはらむ、夢の時」へと投げ放たれるのだ。古義人に、もはや自分の魂が<こちら側>へと帰ってくることを手伝ってくれるものはいないことが感知されたとき、彼はついに昏睡する意識のなかで決意するのだ。「私は私自身を救助してやる!」だが、その決意、つまり再び<こちら側>へ来て「新しい人」になろうとする決意は、「もう一人の母親のような女性の運び手」、ローズさんや千樫によって媒介されたものなのだ。彼女らは、古義人のベッドの周りに集まって、中野重治の小説を朗読し始める……


527p
総計19153p


『取り替え子』http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20080215/1203017718
『さようなら、私の本よ!』http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20070527/1180210051