09読書日記56冊目 『人間の将来とバイオエシックス』J.ハーバーマス

「コミュニケイション的行為の理論」をいわば生命倫理にたいして応用した形をとる本書は、重厚な哲学的思考に支えられて独特の刺激を持って迫ってくる。

ポスト形而上学の時代においては唯一普遍的な価値などは存在しないし、倫理は多様化する。それゆえに哲学は規範を構築することを放棄し、その代わりに哲学はメタ規範的な位置、すなわち正義、公正の問題にのみ関わるように節制しなければならない。「善き生」への回答を差し控えて、哲学は「自己了解のプロセスの形式上の特性のみを調べる」ことしかできないのである。ハーバーマスは第一部「根拠ある断念」の中で、キルケゴールの実存哲学の中に「善き生」への回答を捨て、「自分自身でありうること」というポスト形而上学的な回答を用意したと見ている。キルケゴールにおいて、自分自身であろうとすることを可能にするのは絶対者=神への服従である。ポスト形而上学、脱宗教的時代においてこの種の絶対者に代りうるものは、それが誰の手にも届き得ないという意味で絶対的で超越的である言語のロゴスである。コミュニケーション的行為を行うことで、ポスト形而上的な実存的回答が用意されることになる。キルケゴールの絶対的な権能を言語論的展開によって切り下げて、「主観超越的な力」をそこへと補填するのがハーバーマスの戦略なのだ。

コミュニケーション的行為の基本的な範型とは、それが批判可能であり、妥当性を持ち、第二人称で対面する他者がそれについてyes/noの応答が出来るという了解志向の形式をとる。バイオテクノロジーの発達によって、出生前診断が可能になり、さらには優生学まで真実味を帯びてきている。しかし、出生前の胚にたいして技術的に介入することは、後に成人したその人格に了解の可能性を与えないのである。優生学的プログラミングを処置するプログラマーは、一つの人格以前の胚に対面しているときには、その胚を自然として取り扱っているのであるが、一方、その胚が成長してきて人格を持った人間に育ってくると、それは了解可能なコミュニケーション的理性を備えた人間となりうる。ここにおいて、プログラマーの行為の質が、技術的なそれからコミュニケーション的なそれへと変質するのである。優生学が道徳的な躓きを持っているのは、プログラムされた人間とプログラマーの関係がコミュニケーション的行為を可能にしない、不可逆なものであるという点においてである。プログラムされた人格は、本人が拒んでも変えることが出来ないプログラマーの意志に縛り付けられており、ハンナ・アレントの言う意味での「誕生」を担うものにはなりえないのである。

ポスト形而上的世界では倫理は多様化しているため、一見、この種の生命倫理さえ多様化しているように思えるかもしれない。しかし、出生以前の胚へと技術的な操作を加えることは、多様化しているように見える倫理をたちまち人類に普遍的な様式として一つの倫理的自己理解へと収束させるのである。すなわち、人格以前の人間の生命との関わりは、あまねく人類にとって「類的存在としての自己理解」へと等値されることになると言うのである。ロールズ流の「善に対して優先する公正」は、生命倫理についてはむなしいままである。人格以前の生命との関わり方の問題が提示するのは、公正についてのみ介入すると言う道徳理性を持つ主体が、「類としての倫理的自己理解」「全ての道徳的人格が共有する倫理的自己理解」を前提として成り立っているのである。


135p
総計18626p