'10読書日記37冊目 『人間解放の理論のために』真木悠介

人間解放の理論のために (1971年)

人間解放の理論のために (1971年)

223p
総計10058p
もはや「解放」という言葉は死語になってしまった感さえあるが、しかし、この「解放」は単に権力からの、抑圧からの解放なのではない。1971年に書かれたこの本は、そこら辺の左翼の運動理論書でもなければ、絶えず闘争=逃走するべきことを呼びかけるポストモダンの戯れの書でもない。これは、ある社会の構想を、つまり来る〈べき〉社会の構想を描くための理論書なのであって、実質的なユートピアの本ではない。これはメタ・ユートピアのための理論書である。

マルクス主義の失敗を前にして、人は二つのほうへ引き裂かれる。一つはただちに現実的になり、したり顔で「終わりなき現実を生きろ」と言いつのる方向、また一つは、失敗を失敗と認めずに虚偽の希望だけを胸に抱き、嘘っぱちのユートピアを、空想としてのユートピアをでっち上げる方向。しかし、これらはどちらもどん詰まりであることは、本書が書かれた当時から、40年後の今日に至るまで、あきらかである。求められていることは、これらの二つをどちらも止揚する形で(もはや弁証法も過去の異物になりつつある現在だが)、「虚構を虚構としてはっきり宣言しつつ」「「現実」の地平にたいして価値として屹立する極限の未来」を構想すること、これである。

真木悠介見田宗介)は、コミューンと最適社会という二つの軸において、そのような未来構想を練り上げていく。そこで問題になるのは、他者をどのように理解するのか、ということに尽きる。他者が自己に対して背反的・相反的であるのか、それとも相乗的であるのか。コミューンを定立したかに見えるサルトルの試みは、他者を自己のうちに、自己を他者の内に同一化するような、「融解集団」であった。それはバスティーユを襲う民衆の中に、あるいは学生運動の中にも見出されるであろう。しかし、それらは一瞬の間しか持続せず、一旦運動の敵が壊滅してしまえば、「融解」状態をとどめておくことは不可能で、むしろ絶え間ない邪推とテロルが横行するコミュニティへと堕落してしまうだろう。

筆者は、ここにおいて、サルトルを否定的な媒介として、未来構想の糸口を引き出す。それは他者の持つ相反性を、弁証法的に転回して、他者の持つ相乗性のきっかけとする方向である。すなわち、他者が自己の敵として認知されるのではなく、他者を他者として定位したまま、それでいて自己と他者の間に相乗的な関係が生まれること、これこそが、そしてこれのみが、人間解放を謳う未来構想としてふさわしいと言うのである。

確かに、このような論点を僕は共有する。他者の多様性を、同一性に回収することなく、しかし、ただ分断されて種別化された多様性がばらばらに存在するのではなく、むしろその他者のあり方が一種の契機となって、自己と他者の連帯を生み出す、このような未来構想の描写こそが、理論的に追及されねばならないだろう。

しかし、筆者は、結論に至って、こう言っているに過ぎないように聞こえるのだ。つまり、現状の「疎外された社会」=疎外的な相克性・相反性は、見方を変えれば、「解放された社会」=弁証法的な相乗性になるのだ、と。筆者の未来構想では、現実主義者が持ちうるような、疎外され物象化された他者関係という主軸から、相乗的で人間的な他者関係へと主軸を移すことが主眼になる。しかし、いったいこの移行はどのように可能なのか。可能であるかいなかは問わないと、筆者が言うのであっても、僕は疑問視してしまわざるを得ない。

そもそも、筆者が二章において展開した、欲求の理論が、この疎外的・相反的な見方を、現実において成立たらしめている原因となっているのではないだろうか。疎外とは自分が望んだ状態からは程遠いということであるが、それはまさしく〈欲求〉の形態にほかならないのではないか。すなわち、欲求が、そもそも疎外ということを可能にしているのではないのか。「〜がない」という欠如態が欲求なのであれば、人間社会における社会構想が、どうしても疎外的な観点を主軸に据えるのも当然に思えるのだ。