'10読書日記84冊目 『ロマン主義講義』アイザイア・バーリン

バーリン ロマン主義講義 (岩波モダンクラシックス)

バーリン ロマン主義講義 (岩波モダンクラシックス)

249p
総計26156p
twitterで一部の人の間で話題になっていたので、図書館で借りてきました。講義なので、非常に読みやすいのですが、しかし、なんというかバーリンの教養の為せるわざなのか、華麗な文章が続きます。いや、華麗というのは正しくない。深みがあるというか、熟成されたというべきでしょう。バーリンの『自由論』も相当に面白かったことを思い出し、もう一度読み返してみたくなりました。
バーリンによれば、ロマン主義とは、18-19世紀に確かに存在した思想運動ではありますが、それを定義することはきわめて困難だといいます。第一章では、その思想運動の多様さが示されます。それは、ごく大雑把に一言で言えば、反啓蒙ということになるでしょう(とはいえ啓蒙も多様であり、ロマン主義の側のそれへの反逆の仕方も多様でした)。仮に啓蒙の特徴を次のように言ってみましょう。すなわち、人が真理というものに(いつの時代にかは分からないが)到達できるだろうということ、この真理は教え伝えることができるということ、真理が多数あるとしても真理が真理であるかぎりそれらは矛盾しないだろうということ、これです。この啓蒙に対して攻撃を加えるところから、ロマン主義は、敬虔主義として生まれました。バーリンは(ルター派のような)敬虔主義を「酸っぱいぶどう」に例えて、こう言います。

あなた方は、もし本当に望んでいるものを世界から得ることができないなら、そんなものは欲しくないと自分に言い聞かせなければならない。あなた方は、欲しいものを手に入れられないなら、手に入れることのできるものを求めるよう自分に言い聞かせなければならない。これは、深みへの、あなた方が世界のあらゆる恐るべき悪に対して自分を閉じ込めようと試みる一種の内なる砦への非常にしばしば見られる精神的な後退の形である。

この内なる砦への退却は、「自由論」でも述べられていたことですが、究極的には自殺へと結びついてしまうでしょう。しかし、これこそが、ドイツの敬虔派のムードだったと、バーリンは言います。バーリンは、そこから、初期のロマン派へ進み、ハーマンと、ヘルダー、そして(僕にとっては驚くべきことに)カントを論じます。そこから、さらに多様なロマン派――シラー、フィヒテシェリング、シュレーゲル、『ドン・ジョヴァンニ』、アダム・ミュラー、リスト、グルックショーペンハウアーノヴァーリスシューベルトシャトーブリアンバイロン、スコット――を論じた後に、再びロマン主義を総括します。こうした航路のもとに現れてくるのは、反合理主義、歴史相対主義(に極めて近しい立場)、自己表現、神話、象徴(こういった詩的言語の議論は、明らかにローティに影響を与えたのだと思います)、イロニー、民族主義、完全性の放棄です。これを見ただけでも、ロマン主義の多様性に目を見張る物があるということは分かります。バーリンは、とはいえ、第五章「手綱を解かれたロマン主義」の最後で、印象深くロマン主義の要素を取り出しています。

この二つの要素――自由な拘束されない意志と、事物の自然が存在するという事実の否定、何についてであれ固定した構造を吹き飛ばし、爆破する試み――が、このきわめて価値のある、重要な運動の中で、もっとも深く、ある意味でもっとも途方もない要素である。

そしてさらに、最終章「存続する影響」の冒頭で、先の啓蒙(合理主義)への反逆を再び整理しなおします。それは第一に、屈服することのない意志です。芸術家が芸術作品を創造するまでは、作品が存在しないのと同様に、人間こそが諸々の価値・目標・目的を、そして宇宙を創造するのです。そして、第二に、事物の構造などは存在しないということです。あるのは、無限の自己創造だけだといいます。しかし、こうした二点を要素として持つロマン主義は、決して完成には至らないことをもまた、自らに課さなければなりません。というのも、完成とは真理の謂いである以上、真理が放棄された今、完成に至らないことを自覚しなければならないからです。

彼ら[ロマン派]がきっぱりと、彼らが捉えようとし、確定しようとしている過程を書き留め、描写し、それに結論を与えうるという錯覚の下で作業しているかぎり、空想と幻影が結果として出てくるであろう――それは常に、籠に入れられないものを籠に入れ、真理がないのにそれを追求し、止まることのない流れを押し止め、静止で持って運動を捉え、空間によって時間を掴み、闇でもって光を押さえようとする試みなのである。これがロマン派の信条である。

ですが、こうしてこの「ロマン主義講義」を読み進めてきた者には、当然、かつてバーリンは「自由論」においてドイツ観念論とともにロマン主義を積極的自由の思想運動だとして、退けたのではなかったか、という疑念を持つでしょう。おそらく、バーリンロマン主義それ自体を否定しているわけではないし、むしろこの講義を読むかぎり生き生きとそれを叙述(講演)しているように感じられます。バーリンは、ローティの言葉で言えば、ロマン主義の詩的表現を私的領域に止めておこうという気だったのでしょうか。それは本書からは分かりません。実際、最終章において、バーリンは現代にまで引き続くロマン主義の影響を概括し、少々戸惑っているようにも見られます。系譜上には明らかにファシズムが、ヒトラーが浮かび上がってくるからです。しかし、バーリンは、幾分ムリカラにロマン主義から僕らが学びうる「政治的」含意を引き出してしまいます。それはウォルター・スコットの例とともに語られます。スコットは、理想主義的な作家で、自らの生きたスコットランドの同時代(19C)の諸価値とは「競合する」「両立不可能な」ものとして、17Cスコットランドや13Cイングランド、15Cフランスなどを理想化して叙述しました。

もし過去に、現在あるより貴重な、あるいは少なくとも現在のものと競合する諸価値があるとしても、〔…〕あなた方はそこに戻ることはできないし、再構築することもできない。〔…〕そうであるとすれば、何ものもあなた方を満足させないであろう、なぜなら、二つの理想は衝突し、この衝突を解消することはできないからである。あらゆる文化の持つ最良のものを包含するような状態を達成することは不可能である。なぜなら、それらは両立不可能だからである。

それゆえ、

両立不可能性の観念、〔…〕諸々の理想の多元性の観念は、ロマン主義が、秩序の観念に対し、進歩の観念に対し、完成の観念に対し、〔…〕事物の構造に対して行使する、巨大な破壊槌の部分となる。

これこそ、最後の最後に、バーリンがやってのけるロマン主義からの「自由主義」への跳躍です。一般的に、リベラリズムロマン主義はあまり結び付けられません。バーリンにしても「自由論」では後者に対して、消極的な見方をしていました。ですが、バーリンはこの「ロマン主義講義」の大半で、生き生きとロマン主義を語っているのです。ところが、彼は最終部で驚くような跳躍を見せてしまうのです。それは、厳しく見れば、バーリンの曖昧なところであり、「甘い」ところであり、譲歩であるかもしれません。バーリンは、ロマン主義から価値の両立不可能性を、つまり、共約不可能性を引き出します。そして、さらに、そこからむしろ積極的な政治的含意を導きます。それは、リベラリズムであり、その宝である寛容、品位です。

理想が両立不可能であるならば、人間は遅かれ早かれ、自分たちは間に合わせを考えなければならない、妥協をしなければならない、なぜなら自分たちが他人を滅ぼそうと試みるならば、他人も自分たちを滅ぼそうとするからであるということを理解するにいたる。こうして、この情熱的にして狂信的、半ば錯乱した教理の結果として、われわれは、他人に寛容であることの必要、人間にかかわる事象に不完全な均衡を保つことの必要、人間存在を〔…〕単一の解答の内に追い込むことの不可能性を評価するようになるであろう。

これこそ、バーリンが講義を締めくくり、自らの政治思想との関係を結びつける瞬間です。僕はここに、一般的に言われているリベラリズムのあり方とは異なった種類の思想を見ます。それは、弁証法的なリベラリズム――プルーラリズムだと言ってもいい。普通、リベラリズムは宗教やその他への狂信を否定し、他者に危害を加えないコミットメントだけを、特に私的領域において認めています。それは、個々の人間をその人格-生命において保証するためです。しかし、バーリンは、むしろ、「情熱的にして狂信的」かつ「半ば錯乱した教理」を経ることがなければ、そうしたリベラリズムへは至らないと言っているかのようなのです。実際、バーリンは、少々、皮相な見方を持ってこの講義を締めくくります。

ロマン主義の結果は、こうして、自由主義、寛容、品位であり、生の不完全さの評価である。これはロマン派の意図から非常に離れていた。〔…〕彼らは自分で仕掛けた罠に陥ったのだ。一つのものを目指しながら、彼らは、われわれ全てにとっては幸いなことに、ほとんどまったく正反対のものを生み出したのである。

僕は、このバーリンの立場をどう評価していいのか迷っています。しかし、ドイツ観念論をそしてロマン主義を、丸ごと否定してしまうような凡庸なリベラリストに比べれば、バーリンロマン主義に何がしかの可能性を見出しているのではないかという点で、僕はバーリンを評価したい気持ちになります。実際、僕も自分の中にロマン主義的な要素があることを(しぶしぶながら)認めざるをえないのですから。